縄文時代 日本王国とは
以前、放送されたそうです、結構消されてます。探すとでてきます。
歴史ミステリー 関東に謎の日本王国があった?3
https://www.dailymotion.com/video/x12a2t3
関東日本王国は存在した!?
https://www.youtube.com/watch?v=XsWotPGWdio
2015/10/28 に公開 7:44
テレビ東京「新説!?日本ミステリー」の「世紀の巨大プロジェクト 関東・謎の日本王国を暴く!?」から。
http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-316.html
①古墳の数が多い。関東地区・古墳数38000基で、大和王権古墳数29900基と数で上回っている。また関東地区の古墳は利根川流域に数多く分布している。
②埼玉県行田市のさきたま古墳群は、千葉県の鋸山周辺で採れる石を使っていることが分かった。こういったことからも関東平野に巨大な勢力が存在していたことになる、としている。
③埼玉県東松山市の反町遺跡からはハマグリの貝殻が発掘された。これらの海のものは、川を使って運んでいたことが分かる。
④埼玉古墳群のあたりは「さきたまの津」と呼ばれていた。つまり、津=港である。また古墳の周辺には住居跡がかなり多く見つかっており、権力者による集落が形成されていたことが分かる。
⑤川沿いに開けた大きな集落があったことも分かった。豪族居館の数では、福岡では7つ、奈良が8つ、埼玉周辺が18つと多い。(ただ番組では埼玉と紹介されているが、豪族居館は群馬が圧倒的に多いはず)
⑥埴輪の発掘数が、大和王権812点に対し、関東913点と多い。関東の埴輪は武人像、太刀、馬など武器が多いのに対して、近畿の埴輪は家財、家などが多い。2つの国には違いがある。
⑦高崎市観音塚考古学資料館にある「馬具をつけた馬の歯」の遺跡を紹介。「もともと日本には古来の馬がいなかった」といった説明があった。魏志倭人伝には「(倭国には) 牛、馬、虎、豹、羊は無し…」という記述があり、日本には元々馬はいなかった、ということを強調している。また、さきたま古墳に埋葬されていた人物の副葬品として「馬具」が多く、畿内よりも関東の方が馬具の出土数は圧倒的に多いという。馬具出土古墳数、畿内380基、関東760基。古代の馬牧場数は畿内が0、関東27つ。
東毛周辺や伊勢崎市、旧境町には、多くの埴輪が出土しているし、埴輪としては唯一の国宝である「武人埴輪」が出土している
関東で馬を操った一大勢力 毛野族
「毛野氏」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E9%87%8E%E6%B0%8F、「毛野国」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E9%87%8E%E5%9B%BDまたは、「毛野族」などで検索すると面白い記事、興味深い説がたくさん出ています。
http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-315.html
かつて関東平野に「日本王国」が存在していたというもので、その証拠となるのが、群馬県から埼玉県にまたがって存在している古墳群だという。
行田市のさきたま古墳群
さきたま古墳公園 「行田市の市街地から南東へ約1kmにある「古墳群」は、大型古墳が集中していることで全国的に有名で、昭和13年8月に国の史跡として指定を受け、「さきたま風土記の丘」として整備、活用されていました。中でも丸墓山古墳は日本一の円墳といわれています。また、稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣は、115文字の銘文が持つ歴史上の意義から世間の注目を集めました。 昭和51年4月に、これら古墳群との調和のとれた、観賞、保護及び散策を目的とした公園を整備を進めています。」
さきたま古墳群配置図
http://ktmrj15.webcrow.jp/p11st/tpx0606st1.htm
形 |
主軸長 |
後円部径 |
後円部高さ |
前方部幅 |
前方部高さ |
時期 |
|
稲荷山 |
120 |
62 |
11.7 |
74 |
10.7 |
5C後半から末 |
|
二子山 |
138 |
70 |
11.30 |
90 |
14.9 |
6C初頭 |
|
53 |
30 |
3.4 |
30 |
3.3 |
6C前半 |
||
丸墓山 |
円墳 |
105 |
- |
18.9 |
- |
- |
6C前半? |
瓦塚 |
73 |
36.5 |
5.1 |
47 |
4.9 |
6C前半から中頃 |
|
奥の山 |
70 |
43 |
6.8 |
47 |
7.4 |
6C中頃 |
|
鉄砲山 |
109 |
55 |
9.0 |
69 |
10.1 |
6C後半 |
|
将軍山 |
90 |
39 |
不明 |
68 |
9.4 |
6C後半 |
|
中の山 |
79 |
42 |
5.1 |
44 |
5.4 |
6C末から7C初め |
|
浅間塚 |
円墳 |
58 |
- |
8.7 |
- |
|
6C? |
戸場口山 |
方墳 |
一辺40 |
- |
- |
- |
|
7C前半から中頃 |
さきたま古墳には2000を超える古墳があったそうです、鴻巣古墳にもいっぱいあったそうです。地名として残っています。ことらの日記では詳しく解説しています。
生出塚神社 出雲朝 誉田別命 安閑天皇 清寧天皇 日本王国
鴻巣市は、かつて天邪志国、武蔵国(むさしのくに)の国府です。
鴻巣(こうのす)は皇の祖、甲の州、国府巣です。 その最初が市立生出塚保育所 の土地にあった神社だったそうです。この時の地名はノアだったそうです。 ノア 神社に祭られるオキネさんは、天邪志国と言うのは侵略者だったといっています。 また、「おいねづか」は「おき(ひ)ねづか」が本当だと言っています。神社の由緒の下、安閑天皇の内容をご覧ください。 生出塚神社の由来. 安閑天皇様によると、創建されたのは神倭朝22代 清寧天皇様だそうです。
常世岐姫神社
〒361-0033 埼玉県行田市渡柳 (わたりやなぎ) 1479
渡柳村の村社だそうです。
創立の年度不詳(何時からあるのか解らない)と書いてあります。無理もありません。
私も、当初は全く解りませんでした。
ここは埼玉古墳でも、一番古いところだったのだそうです。日本の歴史の天神7代後半というところです。
御祭神の説明
常世岐姫命 遠い国から来た女性です。聖書でイブと書いてあります。 イシス神
菅原道真公 日本人は誰でも知っている天満天神、学問の神様です。梅の木、牛を大事にしました。
宇迦之御魂命 稲荷神様の筆頭の神様です。インド、ペルシャでミトラ神と呼ばれた方です。皇統の方です。
譽田別命 八幡神様の応神天皇の諱(いみな)です。「ほんだわけのみこと」と読みます。
建御名方命 諏訪大社の御祭神様、大国主の息子さんです。 アフラマズダ神
糠田氷川神社
鴻巣市糠田にあり須佐之男命(スサノオノミコト)と櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)を祭神にする(糠田)氷川神社は二間社流造千鳥破風(にけんしゃながれづくりちどりはふ)・軒唐破風(のきからはふ)付き柿葺き(こけらぶき)本殿で、尾垂木(おたるき)に龍と鳳凰の彫刻がされており、鴻巣市指定文化財となっています。
まだまだいっぱいあります。
https://ameblo.jp/japmasa778/entry-12213199538.html
ことらの日記の解説より
以前テレビでも放送されていた日本王国とは、出雲朝の八代から十代までのことです。
出雲朝は世襲ではなく、税金もとりませんでした。
八代様は国忍富、誉田別命(ほんだわけのみこと)です。その為、行田は忍町だったのです。
九代建御名方神、十代雍主日子(ミカヌシ) 日本名は天手力男命です。将軍山の主です。
テレビでも、日本王国の人は東北に逃げたと言っていました。その通りです。
しかし、その原因が嘘の歴史、日本書紀を捏造したフジアン藤原氏=中国人の侵略とは言いませんでした。
安閑天皇様に、当時の日本王国、出雲朝が始まった時の、誉田別命の皇居を教えて頂きました。
下忍神社だったそうです。その後、神倭朝の天皇に応神天皇として践祚されたのです。
既に1700年以上も前です。誉田別命は胎中天皇とも言われました。
27代安閑天皇様、22代清寧天皇様も、国忍富(くにおしどみ)の「クニオシ」名を頂いています。
これは動かぬ証拠です。
倭と大和、ことらの日記より
蘇る神代と三ノ耕地遺跡
蘇る神代 平成22年11月09日
http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikk_i2010_01/2010_01/nikki2010_11s.html
以前に垂仁天皇は、吉見にいたと日本の歴史に書きました。御所と言う土地あたりです。
その近くからは、三ノ耕地遺跡というのが発見されました。
ヲホドさんが言うには、ここが垂仁天皇の陵なのだそうです。
西にある古墳の多くが、中国人が歴史をでっち上げるために捏造したものだと気がついたなら、話は変わります。
こちらが三ノ耕地遺跡の発掘時の写真です。
ヲホドさんが言うには、暗黒の時代は朝鮮からの傭兵だった武烈天皇と呼ばれた人間のせいなのだそうです。勿論でっち上げだそうです。
この人間は、神倭朝22代の清寧天皇が、朝鮮から兵として雇ったのだそうです。
いつの時代も、傭兵が思い上がるので、真の天皇様も大変です。勿論、この人間も寝所で殺されました。当然です。
ヲホドさんが、日本書紀は、皆大嘘だと言っています。
ヲホドさんも、継体天皇と呼ばれるのは嫌だそうです。
ヲホド天皇の、娘のオキネさんも、群馬からの中島の侵略に苦労して、大和朝廷の兵を借りざるを得ませんでした。
そのため、大事な吉見(横見郡)を大和朝廷にとられ、真実が歴史の闇に消されてしまったのだそうです。
そして、東国の王ヲホドさんが、大和朝廷の天皇として、大友金村(イタ公)に呼ばれたのだそうです。
思い上がる傭兵の子孫などに、天皇は務まらないのです。
日本書紀や、多くの偽書に騙された研究者の皆さんは不幸だったかも知れません。
http://yoshida-kofun.in.coocan.jp/saiyosim1.htm
埼玉県比企郡吉見町
比企郡吉見町久保田 標高 14.2m 全長15m? 前方後円墳
吉見南小学校北東300mの田の中にあります。地元で「とうかん森」と呼ばれるように低い墳丘上に稲荷(とうか)祠があります。小型前方後方墳の一部が田んぼで削られています。帆立貝式古墳にも見える。田の導水路とは明らかに異なる周溝が見られる。詳細資料が見つからないが明らかに古墳。なぜこの平地に築造されたのか不明。光信仰の神イナリ(稲荷)祠がある。村落の共有地だったので現在も存在している。発掘しても石室や貴重な埋葬品はなさそうに見える。
比企郡吉見町久保田 縄文住居跡 前方後方墳3基 標高 15m
久米田の丘陵(山の上)下にあります。加曾利B式土器の出土から考えると縄文後期4000年前頃の遺構。その他、4世紀初の前方後方墳(1号墳長さ69m 2号墳長さ40m 3号墳長さ27m)が確認されている。 南北13.5m 東西7.3mの水場遺構は年代が判らない。縄文後期から人の営みがあり弥生文化の伝搬で水田が作られ水場遺構が残ったのであろうか。久米田の地名から良好な水田があったと思われる。地質的に鉄分を含んだ土壌。今でも田の水路に大量の砂鉄が見つけられる。数千年来人の営みがあったことが不思議だ。縄文時代は海が浸食してこの辺りの荒川は東京湾の一部だったのだろうか。古墳時代北西の行田、埼玉古墳群のある辺りには埼玉の海(湾)があった。南側の市野川の蛇行も考えられる。市野川の上流には古墳が多い。現在の地形からは想像出来ないが、居住に最適な場所だったのであろう。埋蔵品から見て、山の上の丘陵は猪、ウサギ、鹿など狩猟や木の実採集など適していたと思われる。
比企郡吉見町久米田山上 標高 22.5m 28m×26.2m 方墳 (方形周溝墓?)
久米田の北丘陵上にあります。墳丘稜と藪状態で方墳が確認できない。現在閉鎖された「埼玉県の文化財マップ」では久米田の丘陵上に山の上古墳群1号、2号墳、8号墳、山の上遺跡がマークされていた。1号墳は近づけない。2号墳と思われる墳丘は東側に墓が数基見られる。それ以上の踏み込みは困難。
比企郡吉見町久米田山上 標高 26.9m 円径10m 以下 円墳等
久米田の北丘陵上にあります。2号墳の西側に円墳とおぼしきマウンドが見られる。埼玉県美里324号墳に似た景観。地権者が古墳と認めて削平しかねているように見える。旧埼玉県文化財マップでは山の上古墳群、山の上遺跡とマークされていることから、数基の古墳があように思われる。藪状態で方墳が確認できない。現在の墓は丘陵上古墳に造られた墓に見える。丘陵下の久米田、三の耕地の住民の共同墓域が山の上遺跡。
比企郡吉見町和名 標高 28.1m 長さ5m 登り窯4基
人工溜池 和名沼の北西に埋め戻し保存されています。吉見町が財政的に苦しいのか、発掘情報や資料が乏しい。検索すると「古墳時代の埴輪は500℃以上で焼く」「登り窯が数基あった」とある。考古学的に正しくない。埴輪は土師器で高温を必要としない。登り窯と須恵器の出現は考古学的に五世紀後半と比定されていますが、須恵器の出現理由が考察されていません。浅井壮一郎著「古代製鉄物語」(彩流社)によると、物部氏、土師師は本来は製鉄族。沼鉄は低い温度で溶け製鉄する。鉄鉱石からの製鉄はさらに高い温度を必要とすると書かれている。初期製鉄の原料は沼鉄。葦、菰 蒲などイネ科植物の根に集まる鉄イオンの褐鉄鋼で溶解温度600~700℃の低温製鉄。この製鉄窯や野焼きで土師器を焼いた。5世紀中ごろ朝鮮の伽耶の存続が不安定になり、また鉄鉱石が枯渇した。伽耶の製鉄族(陶氏など)が日本列島に渡り、鉄鉱石を採り、製鉄を始めた。溶解のためにより高温が得られる登り窯や、斜面にトンネルを作る穴窯を利用。製鉄時以外は生活用品や埴輪などを焼いた。これが須恵器(陶質土器)の出現理由。製鉄用の登り窯の為には高温耐火粘土が必要。さらに原料鉄にリン酸鉄を含む黒土を加えると鉄の溶解温度が1130℃から950℃に下がる。砂鉄からの製鉄はさらに高温(1400℃)を必要とする。又動物の死骸を投入すると骨などに含まれるリンが融点を下げる(湯が沸く)。純粋鉄の融点1528℃。現在の高炉は1200℃。吉見の黒岩横穴墳の黒岩はリン酸鉄が採れたのではなかろうか?そこで改めて和名埴輪跡を見てみる。登り窯が数基ある。3,4基がすでに埋め立てられた場所は急峻な谷間だった。春先の季節風が吹くと登り窯に強風が送り込まれふいごの役目をして窯温度を高める。又製鉄は毎回窯を破壊して鉄を取り出す。その為作業ごとに登り窯の跡がたくさん残る。現在も和名近くの小川や水路から簡単に砂鉄が採取できます。和名の製鉄が鉱石か砂鉄か不明。 一般的に窯跡からの出土品はあまり注目されません。登り窯→埴輪→墓飾りは表面的な解釈で考古学会の怠慢。和名の窯と同時代に大量の埴輪を必要とする古墳が近隣にあったとは思えない。この地に窯が作られた要因に良質な粘土が採れる事が考えられます。
一般的に黒が付く地名は、金や鉄に関係します。黒鉱は閃亜鉛鉱、方鉛鉱、黄鉄鉱、黄銅鉱、重晶石、石英などからなる緻密な混合鉱石。銅、鉛、亜鉛、金、銀の原料石。日本海側の秋田など弟三紀緑色凝灰岩の分布地域に産する。
吉見町民俗学1 (民俗学:民間伝承を集め調べることによって、庶民層の伝統的生活様式、社会形態を明らかにするもの。一般庶民の生活・文化の発展歴史。先駆者 柳田国男、宮本常一)
粘土売り: (2016年3月 矢島製作所 矢島淳 氏から聞き取り)
和名の近くには粘土が採れる。明治時代まで粘土の塊を太さ径20cm、長さ30cmくらいの棒状にしてわらを巻き江戸、東京への販売を生業とした人が居た。
瓦の製造: かわら今昔 寄稿 石川初雄 抜粋。「吉見の昔ばなし」吉見郷土史研究会 吉見町立図書館 発行
吉見北地区を中心とした地域には良質な粘土が豊富にありました。地場産業として最盛期十一の粘土瓦製造工場があった。昭和十二年頃はすべて手作業。農地の表土を30cm位い削り取りその下の粘土を掘り出す。風化のため暫く屋外に晒す。土間の一部の「はこ」と呼ばれる場所に一定量の粘土に水を十分含ませる。「はこ詰め」された粘土を何度も切り返す(土練り)その塊がだんだん小さくなると10cmくらいの厚さに「ふね」の間に広げ、わらじをはいた足で踏み練る。それが終わると「横鍬」という特殊な用具で「土をおこす」作業を三~四回繰り返す。それを手で転がし太さ30cmくらいの棒状にして素材作りは終わり。・・・・以下省略
この土練りしたものを江戸に売りに行ったのが粘土売りの材料であろうか。
吉見百穴~埼玉県吉見町~ - 裏辺研究所
www.uraken.net/rail/travel-urabe414.html
日本における人類学の草分け的存在である坪井正五郎が、当時は東京大学の大学生だった1887(明治20)年に発掘を行ったもので、小人であるコロボックルの住居で、後に墓としても使われたと発表。しかし、 ... なお、太平洋戦争中に中島飛行機の地下軍需工場を建設するため、この地に碁盤の目状に坑道が掘られた際、吉見百穴にも3箇所の坑口が掘られ、遺構の一部が破壊されてしまいました。これは、 ... 古墳時代、4世紀の三ノ耕地遺跡からは木製の農具が良い保存状態で発見されており、非常に貴重。現在と ...
以下のHPを発見、地図に添付している。
https://magnoliachizu.blogspot.com/2015/?view=sidebar
出雲朝、神倭朝、上古朝、ウガヤ朝
ことらの日記には、
平成26年になり、ウガヤ朝と上古朝は、出雲朝の事と認定できました。
と書かれています。竹内文書に書かれていることと木簡の古事記に書かれていたことを調査した結果のことです。これまで16年懸かっています。
竹内文書も修正されています。
出雲朝の天皇は、神倭朝の天皇にもなっています。簡単な対応を書きます。
出雲朝 ←は元、→は転生、践阼(天子の位を受け継ぐこと)和名、別名など
1.瓊瓊杵尊 ににぎのみこと ←上古朝24代、→ファラオ・アイ→天海上人、円空
2.布波能母遅久奴須奴 フハノモジクヌスヌ →神倭朝10代 崇神天皇
3.深淵之水夜禮花 フカブチミズヤレハナ →神倭朝11代 垂仁天皇 →イエス・キリスト
4.淤美豆神 オミズヌ →神倭朝13代 成務天皇 大巳貴命
5.天之冬衣神 アメノフニギヌ →神倭朝14代 仲哀天皇(3人が践阼した一人)
6.大国主 オオクニヌシ →神倭朝14代 仲哀天皇(3人が践阼した一人)
八千矛神、寒川比子尊
7.鳥鳴海 トリナルミ →神倭朝14代 仲哀天皇(3人が践阼した一人)
8.国忍富 クニオシドミ →神倭朝15代 誉田別命(応神天皇)
忍町(現在の行田市)の祖
9.ハヤミカノタケ佐波夜遅奴美 ハヤミカノタケサハヤジヌミ →建御名方神 メネス
10.雍主日子 ミカヌシ →ミカエル、軍神マルス 、不動明王、ミカド、ガド族の族長、
箕田源氏
11.多比理岐志麻流美 タヒリキシマルミ→事代主命 倭健命(ヤマトタケルノミコト)
ミスラ神 閻魔大王
12.美呂浪 ミロナミ →田中(たなは)大神 ヤーウェの神 上古朝18代
13.布忍富鳥鳴海 ヌノシトリナルミ→アメン神、アモン 阿弥陀如来
14.天日腹大科度美 アメノヒベラオオシナドミ →神倭朝16代 仁徳天皇、カニシカ王
15.遠津山岬多良斯 トオツヤマザキタラシ →ガブリエル、
倭宿禰尊(やまとのすくねのみこと)
天神 天地創造 聖書の7日間に対応
3.天地分主大神 アメツチワカレノシノオホカミ
4.天地分大底女大神二神 アメツチワカレオホソコミドノオホカミフタカミ
5.天一天柱主大神躰光神天皇 アメハジメアメハシラノシオホカミミヒカリノカミスミラミコト
天皇を祭主とし、岐阜県大野郡久久野山に天神霊ませる(船山、岐阜県高山市久々野 町無数河)
6.国万造主大神身光天皇クニヨロズツクリノシオホカミミヒカリノスミラミコト
天神人祖一神宮を、飛騨・位山に開く
7.天御光太陽貴王日大御神大光日天神 アメノミヒカリオホヒナカキオヒオホミカミオホヒカリヒアマツカミ →エジプトの初代の王ナルメル(3125 - 3062)
7.後半 天御光太陰貴王女大神 アメノミヒカリオホインナカキオメオホカミ
シュメールの始まり。金星より天皇(スメラミコト)降臨. アダムの発生。楽園とは金星 でした。常世岐姫の時代
この天皇は、火星より降臨された出雲朝の祖になります。
四大神として祀られる、宇気持大神、和久産巣日大神、豊受大神、托枳尼眞天様
上古朝 皇祖皇太神宮にある御神宝、天空浮舟で世界各地に巡幸
1.天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇 アメヒノムトアシカビキミノシ
天神人祖一神宮を、富山に移す →トラス第2王朝(2890 - 2686)(2012/3/3)
2.造化気万男身光天皇 ツクリノシキヨロヅオ →鹿島神宮を創建(3000)
3.天日豊本黄人皇主神天皇身光神 アメノヒノムトヒノヒノミノシ →第2王朝のネフェルケレス
4.天之御中主神身光天皇 アメノミナカノシ→妙見様 アメンホテプ4世 アラーの神 (18王朝,1350 - 1334)
5.天八下王身光天皇 アメノヤクダリオ →第2王朝のピノトリス
6.天目降美身光神天皇 アメノメクダリミ →第2王朝のケネレス
7.天相合美身光天皇 アメアヒアハスミ ネチェルイリケト →古事記の始まり
8.天八百足日身光天津日嗣天皇 アメヤオタルヒ →第2王朝のセーソクリスト 第2王朝(2890~2686)
9.天八除魂身光天津日嗣天皇 アメノヤヨロヅタマ →第2王朝のセテネス
10.高皇産霊身光天津日嗣天皇 タカミムスビ →皇祖皇太神宮と改名 建御名方神 クフ王 第4王朝(2589 - 2566)
11.神皇産霊身光天津日嗣天日天皇 カンムスビ →田中大神 ヤハヴェの神 ウガヤ朝の12代 イサク
12.宇麻志阿志訶備比古遅身光天津日嗣天皇 →ウマシアシカビヒコジヤコブ 大山祇神
13.天之常立男身光天津日嗣天日天皇(アメノトコタチオ)→アメン神 →阿弥陀 天照(13番目)の父
14.国之常立身光天津日嗣天日天皇 クニノトコタチ →ノアの洪水(第5王朝 2370)
15.豊雲野根身光天日嗣天皇 トヨクモヌネ
17.角杭身光天津日嗣天日天皇 ツヌグヒ
18.大斗馬王身光天津日嗣天日天皇 オホトノヂオ →11代、ウガヤ12代にも名がありますが、重ねて践祚されたのだそうです。 田中大神 ヤハヴェの神 出雲朝12代 ミロナミ ノア
20.惶根王身光天津日嗣天日天皇 カシコネオ
21.伊邪那岐(いざなぎ)天皇 →イザナギ・イザナミ以下多くに、侵略者の嘘が多くありました。(この天皇は存在しない天皇になっています、イザナミはいますチタルヒメ )
22.天疎日向津比売天皇(あまさかるひにむかいつひめ→アマテラス
24.天仁仁杵身光天津日嗣天日天皇 アメニニギ →ニニギノミコト
25.天津彦火火出見身光天津日嗣天日天皇 アマツヒコホホデミ
ウガヤ朝 実際は6代位だそうです。
1.武鵜草葺不合身光天津日嗣天日天皇 (タケウガヤフキアハセズ
2.日高日子身光天日天皇軽島彦尊 ( ヒタカヒコ カルシマヒコ
4.玉噛尊天津日嗣天日天皇 ( タマオギノミコト
5.天地明成赤珠彦天日身光天皇 ( アメツチアカナルアカタマヒコ
6.石鉾歯並執楯天皇天日天皇身光天皇 ( イシホコハナラビトリタテ
7.櫛豊媛尊天日身光媛天皇(クシトヨヒメ
10.千足媛天皇天日身光万国棟梁天皇(チタルヒメ →アフロディーテ イザナミ
11.禍斬剱彦天皇天日身光万国棟梁天皇 ( ワザキリツルギヒコ →サルゴン
12.弥広殿作天皇天日身光天皇(イヤヒロドノツクリ →田中大神 ヤハヴェの神 イサク
16.産門真幸天皇天日身光天皇(ウブカドマサチ →セム人の祖、ノア ノアの洪水
20.天津明少名大汝彦天皇天日身光天皇 ( アマツアカリスクナオオナムチヒコ
22.天押開神魂彦天皇天日身光天皇(アメオヒラキカミミタマヒコ
23.天饒国饒狭真都国足天皇天日身光天皇 ( アメニギクニニギサマツクニタル
24.天饒国饒黒浜彦天皇天日身光天皇 ( アメニギクニニギクロハマヒコ
26.種浙彦天皇天日身光天皇(タネカレヒコ →夏の禹と言われた方。
27.建玉天皇天日身光天皇(タテタマノスミラミコト →サルゴン
28.天之海童楽之雄天皇天日身光天皇 アメノソリエラギヲ →tera アブラハムの父 寺 卍 エレミヤ書のエレミヤ
29.神豊実媛天皇天日身光天皇(カミトヨミヒメ →ピタゴラス バビロニア王ネブカドネザル
30.円脊之男天皇天日身光天皇(マルセノヲ →セテイ1世(1291 - 1278) 第19王朝、張角→昭和天皇
31.橘媛天皇天日身光天皇(タチバナヒメ →ラムセス2世(1279 - 1212) 第19王朝 第31代用明天皇
33.清之宮媛天皇天日身光天皇(スガノミヤヒメ →卑弥呼 平成23年1月21日
以下の該当は無し
41.神楯広幡八十足彦天皇天日身光天皇(カミタテヒロハタヤソタルヒコ
50.神足別国押之女天皇天日嗣天皇(カミタルワケクニオシノヒメ
53.天開明知国束天皇天日嗣天皇(アメヒラアカリシリクニツカ
54.高天原輝徹国知天皇天日嗣天皇(タカマノハラテリトホルクニシリ
59.天地明玉主照天皇天日嗣天皇(アメツチアカタマノシテラス
63.事代国守高彦尊天皇天日嗣天皇(コトシロクニマモリタカヒコミコト
68.天津日高日子宗像彦天皇天日嗣天皇(アマツヒタカヒコソオラヒコ
70.神心伝物部建天皇天日嗣天皇(カンココロツトフモノノベタテ
71.天照国照日子百日臼杵天皇天日嗣天皇(アマテルクニテルヒコモモヒウスキネ
73.狭野尊天日嗣天皇(サヌノミコト)→神武天皇 10代 雍主日子(ミカヌシ)等に当たる キリスト教では軍神マルス、ミカエルなどといわれる方 邇邇藝命(ニニギノミコト)の曾孫 時空的には出雲朝初代から2代の間
実に奇妙な戦い白村江の戦い
白村江の戦い(はくそんこうのたたかい[2][3]、はくすきのえのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。
マイペディア
663年,日本が唐に敗れた海戦。白村江(〈はくすきのえ〉とも)は朝鮮南西部の錦江(きんこう)河口付近の古名。かねてから百済(くだら)と争っていた新羅(しらぎ)は,高句麗(こうくり)と戦っていた唐と結び660年,ついに百済の都を占領,王らを捕虜としたので,百済の遺臣は日本に救援を求めた。大和朝廷は朝鮮南部の日本の権益を守るため,これに応じて大軍を派遣,斉明(さいめい)天皇・中大兄(なかのおおえ)皇子らも北九州に本営を置いて指揮したが,天皇は病死。水軍は663年8月27・28両日の海戦で唐の水軍に挟撃(きょうげき)されて大打撃を受けたので,朝鮮からすべての兵を引き揚げ,内政に専心することになった。
画像はネットから
以下のブログが面白い。
http://nsy3.blog.fc2.com/blog-entry-62.html
白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)っちゅうのが7世紀に有ったのねんが、これが実に奇妙な戦いでね・・。
その理由はね・・もう判るかと思うけんども・・
「倭」とは大和朝廷側のことを言ってるのではなくて、「姫氏國」もしくは、その流れを引く「九州王朝」のことだったから・・なのねん。
少なくとも「大陸の国が言う倭の国は大和朝廷では無かった」のねん!
だから、唐・新羅の全権大使は、九州に来て戦犯として「筑紫君」他を連行しているようなのねん。でも畿内の朝廷にも郭務宗らが2000人規模で来てはいるが、どうもこれが挨拶程度のようなのねん・・。「筑紫君」こそが倭の王っちゅう証拠に思えるよねん?
この白村江の戦いをしたのは九州王朝の「倭国」であって、「大和朝廷はほとんど何もしなかった」のねん。もっと言ってしまえば、
「白村江の戦いは無かった!!」
実際には倭国は661年~662年に百済を助けに行ってるのねん。そして、倭国に人質として預かっていた百済皇子も連れて行ってる。そしてそこで大敗を喫したのねん。それは中国の歴史書にも「倭国と戦った」と書いてあるのねんけんど、白村江の戦いの663年のことは書いてないのねん。大和朝廷がやったことは、戦後の後始末として百済に向かい、残存勢力と小競り合いをしつつ、百済の官僚・王族たちを連れ帰ったことだけなのねんな~。ね~・・ビックリだしょ~!
以下のブログにも詳しく書いてある。
https://blog.goo.ne.jp/mitunobu11/e/d794b670274ce457c430ea72833a2efd
ことらの日記では、偽書の記録以外には無かった。捏造です。
http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2013_01/2013_n12_3.html
白村江の戦いは中国朝鮮がやったのだそうです。皆捏造です。
・・中国(唐)による転利目的の捏造だったそうです。
http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2014_01/2014_7_25.html
天智天皇が知らないという白村江の戦い記録や、でっち上げの斉明天皇の墓などランドマークも沢山作り上げました。
http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2013_01/2013_n08_21.html
ふざけた白村江の戦いで日本大敗などというのも捏ち上げです。
そもそも、朝廷は鴻巣にあったのです。天智天皇も、白村江の戦いなど無かったと言っています。
http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2014_01/2014_3_27.html
額田姫をめぐる因縁や、九州王朝説など、全て嘘です。
天智天皇は白村江の戦いも知らなかったのです。以前から天皇家周辺には敵国、バカチョンの草がいたのです。
したがって不破の関などという話も的外れです。
弘文天皇によると戦いは27日間続いたそうです。最大の激戦地はここだったそうです。
府中市立南白糸台小学校
弘文天皇は母が伊賀の采女だったと言われています。
この母は壬申の乱の2年前に殺されてしまったそうです。
その為、天智天皇はこちらに祭ったそうです。
八千矛神、大国主尊を祀る九万八千(くまはっせん)神社です。ここは大友皇子の母の古墳だったのです。
訪問者様が取材してきてくださいました。
いつも感謝です。
http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2014_01/2014_1_2.html
アスは慈悲という意味もあるそうです。
ヨーロッパ以外の国にはたいてい慈悲という意味の言葉があるようです。特亜の国は除くようです。
そしてアスは宇宙でもあるのだそうです。astro-は星、天体の接頭辞です。
アッシリアの人もアオイタ公に追われ日本に逃げてきたのです。この人達も出雲族です。
允恭天皇は出雲族の弾圧のため探盟深湯(くがたち)を行ったのです。
・・もちろん、良き天皇の皆さんは合議の上、允恭を天皇とは認めないそうです。
ざっと古代天皇から除外すべきは、允恭、雄略、武烈、宣化、桓武・・などです。
倭(やまと)(出雲朝)に敵と成り、歴史記録を捏造させた者たちです。→「コン」
その背後がアオイタ公、獣666、バチカン+バカチョンです。
メソポタミアのメとは邇邇藝命(ににぎのみこと)の星、火星です。ここもアスです。
エジプトの地にもアスワンがあります。イシス神、常世岐姫の世界です。
天神7代後半は、地球の核、胎蔵界の指令、お地蔵様の世界です。
天神7代前半は聖書で言う混沌の時代で、氣比(ケヒ)というのだそうです。
この氣比がイソ(iso,五十)なのだそうです。地球の素はケイ素ですが混合中といったところです。
星ができると、指令であるお地蔵様が住まれ、日本が開闢したわけです。日本以下はおまけのようです。そのため、日本の侵略はありえません。
南京大虐殺も無かったのです。日本が侵略などバカチョン共の捏造です。
白村江の戦いすら、偽書の記録以外には無かったのです。これもふざけた話です。
など、いっぱいでてきます。
耶靡堆国(耶馬台国)の成立
耶靡堆国(耶馬台国)の成立、このHPが見れないので、以前セーブした内容を書きます。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kosikode/outyo.html
後期旧石器時代、今から一万四千年前になると日本列島は細石刃文化におおいつくされる。これらはシベリア極東地方から中国東北部にかけて見られるが、このころ、中国大陸から日本列島の北海道、東北、北陸、新潟、長野、長崎などへ渡来した人々がもたらした文化と考えられる。さらに一万三千年ほど前の中石器時代になると中国大陸から土器文化を携えた人々が九州、山陰、四国、中部地方へと渡来したと考えられる。かくしてここに縄文文化が花開くことになるのである。定説では、西日本にあっては縄文晩期から北九州にいち早く水田稲作によって米を生産する文化、すなわち弥生時代が到来していたのであるが、それに対して東日本は、縄文期を通じて新しい文化には保守的であった。
ところで、王国、または国の概念とは何だろうか。東日流の諸資料に次のように見えている。「はじめに国に境なく人々適地に住む、亦、望む所に移りて勝手たるも、人、追日に多く生れ、住むる地に幸貧しくなりければ、餌に争い恵幸の地に争いて攻防し、人集いて邑造り、狩猟領域を巡り、他者の侵駐を追ふる攻防ぞ、護国と国造りの創めなり」。
そして、この間の事情を次のように伝えている。
支那三皇の辛丑年、日本奥州に阿蘇辺族王国を起す。
支那神農氏の辛丑年、日本に耶馬台国王朝建国し、荒覇吐五王制をもちて日本本州百八十県を統治す。
支那黄帝の癸巳年、日本国筑紫に熊襲族王国を起す。
支那五帝の辛丑年、日本国出雲に王国起り、初帝を蘇賀王とす。
支那少昊の癸丑年、日本奥州に大挙せる移民、坂東に住み、日高見王国を建国す。初帝を多毛宇津と称す。
支那[揣*頁][王頁]の丁卯年、日本奥州東日流に津保化族王国起り、阿蘇辺族王国と併合す。
[揣*頁]は、揣に頁、手編ナシ。JIS第3水準ユニコード9853
[王頁]は、王偏に頁。JIS第3水準ユニコード980A
これらは、今から四千三百四十年~四千九百年ほど前のことである。次いで、
支那に夏王朝起りし頃、日本筑紫に高砂族が漂着し、島津に土着なして王国を築き、この民の故地を高天原国と称したという。これは、今を去る四千百八十年~四千百九十年ほど前のことである。
このように、縄文中期から後期にかけて、東日流に阿蘇辺王国(後、津保化王国と併合)、畿内に耶馬台王国、筑紫に熊襲王国、出雲に出雲王国、坂東に日高見王国と次々に王国が建国された。ところで、この中で耶馬台王国は四千五百九十年~四千八百九十年ほど前に建国され、当初は耶摩堆(やまたい)国と呼ばれたという。第一祖を耶摩堆日子(やまとひこ 彦)とも、阿毎(あめ)氏とも称したらしい。
この一族はユーラシア大陸から満州、朝鮮を経て越州に上陸し、もともとは加賀の犀川の水上、三輪に居住し、白山神の司、豊炊姫を室としていたが、四辺の国々が乱れているのを鎮圧し、国を攻め取り、百国(郷族百八十国とも)を一統して耶摩堆国を建国した。かくして、耶摩堆国明日香の箸香の山を三輪山と号し、加賀の三輪山神を移して三輪山大神とし、さらに大杉にこもれる白蛇神を大物主神として祀ったという。
そして、三輪郷蘇我に高御倉を築いて中央とし、当地の蘇我氏、箸香氏、師磯氏、明日香氏を東西南北の離領王として、中央なる領の阿毎氏と一国に併王、これをあわせて耶摩堆五畿王とし、地主・長老相議の上で高御倉に即位したと。その子には、御嶽(うたき)彦、御海(うんぢやみ)彦の二男子のほか、箸香姫、明日香姫、咲耶子姫、振部姫、日御子姫、白子姫ら六人の女子があり、それぞれ族勢盛んな族主に縁組して耶靡堆国は栄えたという。
この後、耶摩堆国は国号を耶馬臺(やまたい)国と改め、この国の下に筑紫を耶馬壹(やまいち)国、南海道を耶馬弐国、出雲を耶馬参国、東国を耶馬四国と称したとし、耶馬臺国は畿内、筑紫の王国は耶馬壹国と明白に区別している。このことは現在の邪馬台国の畿内説と北九州説の論争に何かしらの指標を与えるものではなかろうか。
この王朝は八百二十三年続いたとされるが、時を経て、耶馬台族五十三代安日(あび)彦王の頃、耶馬台族は五王の制を設けて国を統治したという。
これは中央の正王を中心に東西南北に補王を置く制で、中央三輪山蘇我郷箸香に安日彦王、東方膿駒山富郷白谷に弟王長髄彦(ながすねひこ)王、西方大峰山天井郷に磯城彦王、南方葛城山茅原郷に宇加志彦王、北方白山三輪山郷犀川に八師彦王の五王である。
かくして、その勢力範囲は五畿七道に及んだとされている。五畿とは畿内すなわち、木之国、高尾張国、浪華国、明日香国、大津国のことであり、さらに次の七道の国の王がその傘下に入ったとされている。
すなわち、西海道の猿田彦、南海道の宇彌彦、山陽道の南嶋彦、山陰道の於呂地彦、東海道の恵弥須彦、日高見道の鹿嶋彦、羽越道の[田比]畔彦の七国主である。さらに氏族としては、物部氏、熊襲氏、日高見氏、坂東氏、出雲氏、猿田氏、越氏、海道氏、淡氏、都母氏、木氏、阿蘇氏がその傘下に入った。
[田比]は、JIS第3水準、ユニコード6BD7
佐怒王(さぬおう)の東征
ところが支那釐(りん)王(紀元前六八一~六七七)の辛丑二年に、筑紫日向、高砂族の佐怒王が耶馬台国への東征を奸策し、時の日向王五瀬彦を総大将に壬寅三年、日向を進発、豊の宇佐から岡田、安芸に転戦したが、耶馬台軍はこれを妨ぐこと七年に及んだという。しかし、この間、出雲族が日向軍側に廻ったため耶馬台軍は耶馬台の故地に撤退し防衛を固めた。
一方、日向軍は高島で侵攻の戦備をし、南海道、山陰、山陽の兵を募って、八年後の癸丑九年、八百艘の軍船で浪華の津に上陸したが、大将五瀬王が討死。己未十五年、日向軍の佐怒王が自ら将軍となって耶馬台国を攻めた。この時、長髄彦は深傷を負って退き、安日彦の援軍もまた敗れ、翌庚申十六年、ついに一族を挙げて東国に退去した。
翌辛酉十七年、佐怒王は耶馬台国を攻略して立君し、神武天皇として大和王朝を興し、日本紀元を称したとされているが、耶馬台国への征戦は、この後なお二十八年に及び、佐怒王の立君はなかったと、東日流の資料は伝えている。
東日流王国の成立
このころ、中国、晋の群公子一族の間に内乱があり、その遺臣、遺族が大船十七艘(八艘とも)で東日流西浜に漂着し、永住したという。
東日流の稲作は、実に群公子一族が持ち来たった「ほこね」「いがとう」の二品種の稲種によって、この時から始められたと伝えられている。
一方、耶馬台国では佐怒王の東侵に敗れた安日彦王と長髄彦王が会津で再会し、耶馬台一族とともに丑寅の地、東日流に落着して、群公子一族の遺姫秀蘭とその妹芳蘭と婚じ、群公子一族と併合した。さらに先住民である阿蘇辺族、津保化族をも併合、その四族を合わせて荒覇吐(あらはばき)族と総称し、東日流大里のカムイ丘(亀ケ岡)、三輪郷(弘前市三和砂沢遺跡)、稲架(いなか)郷(田舎館村垂柳遺跡)、栗石郷(黒石)などに拓田し、稲作を興して国が成ったと伝えている。
初代国王即位の式は、古来、津保化族の聖地であった石塔(いしのとう)山の塔前陽仰門で挙行され、荒覇吐王一世として安日彦王を中央正王に、長髄彦王を副王とし、北王に比利加志エカシ、南王に日奈礼彦、西王に蘇我宇奴、東王に宇鹿摩を配し、荒覇吐五王とした。
この時統一した国は百七十国であり、その組織は、部の民の村落に二十カ村を束ねる長老をエカシとし、四十カ村を束ねる者をオテナとし、その上に郡主、郡主五人を束ねる者を県(あがた)主とし、その総政を司る者が分倉(わけぐら)王、すなわち四王の一人である。そして、この四王を総括するのが中央高倉(たかぐら)王である。この制度は耶摩堆国の制度を継承したものだという。
さらに、信仰においては、耶馬台一族の白山神、三輪山大神に自然信仰の地神を併せ、天なるイシカ、地なるホノリ、水なるガコの神(かむい)を荒覇吐(あらはばき)神と総称して石塔山に祀り、統合の国称も日乃本国と称したと伝えられており、これが東日流王国のはじまりであるとされている。
時に支那(東周)恵王甲午二十五年(襄王庚午元年説もある)と伝えられる。
この後、耶馬台族が持ち来たった稲種もあったが、晋の群公子一族の稲種の方が地に適しており収穫が良かったので、水田が振興され、東日流の国も大いに富んだという。
東周王朝考王の癸卯三年には東日流王国ではカムイ丘に神殿を建て六万人の荒覇吐族が参集して大祭を催し、さらに中山石塔山においても大石塔を築塔して大祭が挙行されたと伝えられている。しかし、岩木山、八甲田山の爆発によって東日流大里は降灰の被害や水害やらで荒覇吐王五世の荷薩丁(にさつてい)王の時、荒覇吐王政所を荷薩丁に移して、さらに四王を羽州高清水、渡島夷王山、陸州閉伊、磐州田村に移し、東日流の地を荒覇吐神聖地として祭事所としたという。
耶馬台国の奪還
このようにして荒覇吐王宮も東日流から秋田の鹿角(かづの)、岩手の閉伊(へい)、久流間(くるま)などに移り、次第に日高見川(北上川)に沿って、南へと遷宮して行くこととなるのである。
そして、新地の開拓とともに、秋田の熟(にぎ)族、岩手の麁(あら)族を併合、さらに治領を拡げ、五十九代讃日彦王の時には、王自ら支那に赴き、馬を得て支那馬術チャバンドウを習練し、ここに日之本国に初めて騎馬軍が起こったという。
また、支那東周王朝安王と交わり、安東将軍を称したとされている。なお讃日彦王の時、秋田で地より湧く油を見つけ(石油?)、これを軍用に使用したともいう。
この後、六十一代済糠彦王が立君し、荒覇吐族騎馬軍は五万騎に達し、祖国耶馬台国奪回の軍策を常に企て、倭の那古(現在の名古屋市付近)まで至った。そして六十二代武波日彦王(大根彦、日之本国荒覇吐王十一世)の時、荒覇吐族の念願であった故地耶馬台国すなわち倭国を攻めて、これを奪回し、武波日彦王の子の根子彦を日之本根子彦国奉天皇として耶馬台国王に立君せしめたのは、秦始皇帝丙辰元年(紀元前二二一)のことである。
この根子彦王は記紀にいう八代孝元天皇のことだとされている。
ところが、荒覇吐族の奥州の長老達は根子彦王の立君をよしとせず、荒覇吐五王の南王としては認めると長老会議で決議、坂東に興日彦王を立君し、これを日之本荒覇吐王国の正王とした。
このため、耶馬台国にある武波日彦は荒覇吐族を脱し、自ら日本天皇として出雲、南海道、筑紫、山陽、山陰の統一の国主として王国を形成した。かくして日本国に両王朝が対立することになり、那古で両軍が対陣し、大いに戦うことになったのは、秦始皇帝の甲戌二十年のことだと伝えられる。
この後、倭国には一統の王朝がなく、八十七の小国主が分立して天皇空位の時代が続いたが、前漢朝の中元壬辰元年(紀元前一四九)に荒覇吐系の孝元天皇の子、稚根子彦王が立君し、三輪山に即位して開化天皇と称し、倭国は再び統一された。
開化天皇の立君によって、畿内を中心に出雲、筑紫、内海、南海道、那古、木国、越、濃などの国を併せ、濃州の押領堺を基点に、荒覇吐族から完全に分離して、坂東阿毎川(安倍川)より越州糸魚川に至る境界で東西に分国(いみじくもこの線にはフォッサマグナが走っている)し、西を倭国、東を日高見国と呼び、日本国の中に二つの王国が併立することになり、倭国の大和王朝側から東の日高見王国の人々、すなわち荒覇吐族の人々は蝦夷(えみし)と呼ばれるようになった。
伝承を証明する遺跡発掘調査
これまで書き綴ってきた事柄は、すべて東日流の諸資料、すなわち『東日流外三郡誌』をはじめとする『内三郡誌』『六郡誌』『六郡誌大要』『古事録』『陸奥史風土記』『奥州風土記』『陸羽古史抄』『石塔山荒覇吐神社秘伝』などによるものであり、その成立は寛政年間~文政年間(一七八九~一八三〇)である。
すべてが史実というわけではなく、伝説や伝承もおびただしく混在している。また、現存資料は明治年代に写し取られた再写本であるので、最終成立は明治四十三年であるともいいうる。その後の調査で最終写本は大正六年であることがわかった。したがって、これを史実とするには一つ一つ学術的に証明する必要があろう。
しかし、近年発掘調査が進むにつれて、全国的にそれが証明されつつある。
青森県内においては、昭和五十六年に垂柳遺跡、昭和六十二年には砂沢遺跡から水田跡とみられる約二千二百年前の稲作遺跡が発掘されて、日本農耕史を書き換えることになった。
また、昭和五十九年、東津軽郡平舘村の今津遺跡からは、約二千五百年前に当たる縄文晩期の大洞C 式土器とともに鬲(れき)状三足土器が出土している。これは紀元前三千年前の中国の仰紹(ヤンシャオ)遺跡で発掘された、米の煮炊きや甑(こしき)を上にのせて蒸すのに使用した土器と同じ形であり、米の栽培なくしては考えられない遺物である。
さらに驚くべきに、昭和五十九年に島根県簸川(ひかわ)郡斐川町荒神谷遺跡から三百五十八本の銅剣、その翌年には六個の銅鐸、十六本の銅矛が発掘されたが、それらにそっくりの銅製品が、皮斬(かわきり)という青竜刀様の青銅器とともに、開化天皇の命によって荒神谷に埋蔵されたと記述されているのである。
東日流の諸資料が今後の遺跡発掘調査によって、ますます学問的に証明されることを祈って拙論を閉じる。
(『歴史読本』臨時増刊「特集異端の神々と謎の古代文字」より再録)
縄文時代 鬼界カルデラの爆発、初代久佐男彦とは、安日彦の5機7道
エロヒムによって造られた、のうが高原の人々、津軽に来たあそべ族、つぼけ族、加賀犀川上流に来たヤマトの人々など日本列島にはたくさんの人がいたと思われます。
貨幣のない良い時代、世界各地で交流あり、常世岐姫、天照大神様の時代でした。
26万人いた縄文の人口が、8万人まで激減します。
その2 縄文時代、26万人でピークに | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
鬼界カルデラの大爆発がBC4300に起きました。
7300年前から始まる鬼界カルデラが最大の噴火を6300年前に起こした後は、九州から中国地方、四国までを無人にするほどの巨大な火山灰が500年間に渡って降り注ぎ、西日本で発達した海洋民の縄文文化はこの時期に一旦壊滅しています。
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/05/1249.html
初代久佐男彦とは
万葉集で出てくる男性を示す言葉
http://reverse-mannyou.blogspot.com/2012/02/1.html
乎久佐男(をくさを:乎久佐という土地の男),乎久佐受家男(をくさすけを:乎久佐という土地の若い男)
久佐さんの由来、語源、分布
彦
【彦】の意味は?名付けのポイントを徹底解説! | 一期一名(いちごいちな)
古くは「彦」は「彥」と書かれていたので、「文」「厂」「彡」の3つに漢字を分解して由来を紐解いていきましょう。
「文」は「入れ墨を書き加える」様子を文字にした漢字で、「彡」は「彩」の字にも使われているように「美しい様子」を、「厂」は「おでこを横から見た形」を表しています。この3つを組み合わせて「彦」は「おでこに美しい模様を描いている様子」を表現し、古代の成人の儀式を示しているのではないか、と考えられています。女性の成人儀式を「姫」といい、それと対になっていることから「彦=男性」という意味合いが強くなったようです。
その後、男性の地域の統率者を「彦」と呼ぶようになり、古代日本の邪馬台国では女性の統率者である「姫」と合わせて「ヒメヒコ制」という制度が設けられました。こうして「彦」には「身分の高い男性」の意味が加わり、古代の天皇家の名前に使われるようにもなりました。この歴史的背景から「彦(あるいは比古)」「姫」が「尊い存在」と扱われるようになり、現在では地名や神社の名前などに見られるまでになったのです。
安日彦の5機7道
日の下(もと)の国を大きく分けると
カラフト(流鬼国)、北海道(日高国)、奥州(日高見国)、関東(坂東)、北陸(越国)、山陰・山陽(出雲)、信州(信濃:しな)、近畿、四国(南海道)、九州(筑紫国)、沖縄(高砂国)、陸奥(むつ:東日流"つがる"国)の12国8州だった。
この12国8州はさらに分かれ、国主150人が在位していた。
https://ameblo.jp/motoharu567/entry-12230912505.html
古代日本の地名
この地図分かりやすいので採用しました。
和田家文書と天皇記
私達は、初代天皇は神武天皇から始まり今125代と教わります。
和田家文書を見ると違うことが分かります。以下のHPをみると
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou28/kaihou28.html
天皇制は図1. のように三転していたのである。
私達が教わっている歴史は、三転した歴史であった。つまり創作されたのです。
以下のHPより
「和田家文書」に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史の考察1 2 3 4
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou71/kai07102.html
(1) 「丑寅日本紀」第八“倭国天皇記国記之事”
「倭国天皇記及び国記の編纂を大臣蘇我氏にて推古天皇の二十八年に上宮太子、嶋大臣謀りて録す。書記人に語部とて巨勢氏、平群氏、紀氏、葛城氏、蘇我氏、鴨氏、春日氏,を要言とし、伊奈氏,伊理氏,差保氏,保武氏、阿毎氏、箸香氏、二地氏、ら補言に編集せしに天皇記、成れり。
然るに、国記に於てをや。倭国境を東海の安倍川より西海の糸魚川に地帯せるを境とし、丑寅方を日本国とて荒覇吐王を以て為せる国とせり。依て、その証を唐書に基かしめたり。是ぞ、倭国の国記成れるも、越、坂東、を押領に筆加ふる要言派、これを否せる補言派とに論を激し、茲に大伴氏、物部氏、竹内氏、橘氏、藤氏、を審とて補言派の論勝に決せり。時に、丑寅日本国にては、荒覇吐王居、武蔵大宮に在りて、此の域を安東と称し宗帝よりの賜号とせり。坂東に位せる安東将軍は五代に相継ぎて、讃美彦、珍美糟彦、斉糟彦、興美彦、武波日彦、と曰ふ。
天皇記、国記、は蘇我氏の菅主たりしも、是を皇宮蔵管とせし中大兄皇子、船史恵尺(ふねのふひとえさか)ら、甘橿の蘇我蝦夷を攻め、火箭にて[宀/火]り、不意なる攻めに、天皇記、国記、を石川麻呂にたくし、蝦夷は自刃せり。その後になる壬申の乱にて、左大臣蘇我赤兄、亡びたるも、天皇記、国記、は石川麻呂に依りて、遠けき坂東の武蔵国和銅釜萢邑なる荒脛巾神社に秘蔵し、倭朝の手に入らざりき故に、此の乱にて流刑となりき。
[宀/火]は、ウ冠に火。JIS第4水準ユニコード707E
蘇我氏滅亡以来、天皇記及び国記の行方知らざるに、大化乙巳の乱に焼失せりと、以来風聞にも、その所在、天慶の乱に平将門が鎮護の眼にも留らず、亦、将門を討に藤原秀郷、この大事たるも知らずして、将門の遺姫が居住せし飽田生保内に住むる楓姫に届けらる。後世に此の書入箱、平泉なる白山神に奉納さるも、開箱されぬままにして、十三左衛門尉藤原秀栄に給はれしを、開箱なきままにして石塔山荒覇吐神社に奉寄されたるものなり。
慶長丁酉八月廾一日
飯積之住人 和田左馬之介」
亦、次の様な文書もあります。
(2) 「丑寅日本記」第七“陵墓改葬之事”
「(前略)蘇我氏の陵墓を掘り荒したるは、中大兄皇子にて、八十日を土民を徴してあばきたり。即ち、天皇記の焼けざるを船史恵尺(ふねのふひとえさか)の報に依れる捜掘なり。終にして天皇記、国記、ら文書なきが故に、蘇我蝦夷、自刃にして住居をるときにぞ焼失しけると思いきや、事の兆を察せる蝦夷、加之書を高賀茂の公麿に秘蔵を頼みけるに、是を豊田郷の荒覇吐社に秘蔵せしを、世々に降りて平将門、此の社を神皇社とて祀りき。天慶の乱に討死し、藤原秀郷の菅領と相成りき。依て、此の社を取潰にせしとき、はからずもこの書管の入りたるを知らず、将門の遺品とて秋田生保内に住むる将門息女楓姫に届けたり。楓もまた是を見届けず、そのままにして東日流石塔山に奉寄せるものなり。天皇記は是くして奉寄されたるものなり。
寛政五年八月一日
和田長三郎吉次」
更に大化改新以前の状況を伝える文書もあります。
(3) 「丑寅日本史総解」“議嶋大臣蘇我馬子編天皇記国記”
「推古天皇二十八年より三十六年に至りて、天皇記及び国記を編纂、天皇記全六巻、国記六巻を筆了せるも、天皇崩じ、是を馬子奉持してより倭国一統の葛城王五畿七道を権握す。依て、三輪蘇我郷にありし馬子と併せし王朝を奉ぜしは、日向王磐井彦、春日王和珥氏、筑紫王奴氏、国東王大元氏、日本国王阿毎氏、日高見王多利思彦、坂東王阿輩鷄*彌氏、越王白山神王家六衆及び九龍氏、九首龍氏、三輪氏、犀川氏、出雲氏、河内王別和珥氏、那古王竹内氏にて、是れに抗したるは陸羽日本国の蒙氏、巨勢氏、平群氏、紀国の熊野氏、尾崎氏、朝熊氏、なり。
鷄*は、「鳥」のかわりに「隹」。JIS第三水準、ユニコード96DE
即ち、葛城氏、蘇我氏、に依る併合に警鐘を打ちければ、遂にして大化乙巳の乱起り、中大兄皇子、甘橿丘に蘇我氏を討伐し、天皇記、国記、を奪取せんとせしも、その将士船史恵尺、是を探得られず、焼失と断定す。
右は大宝辛丑年小角伝より。
元禄十年八月三日
伊予記」
『天皇記』及び『国記』が津軽に存在する様になった経過について、今一つの記述があります。
(1) 「丑寅日本記」第七“天皇記、国記、之抄”
「(天皇記)倭国第一世之天皇以宗国(支那国之事)武帝之永初二年二月十日為倭国之応神天皇還難波之津都宮云々。
(国記)夫倭之国異丑寅之日本国其領界坂東之阿毎川東海水戸越之糸魚川西海水戸横断東北堺西南堺相裂堺在是可云々。
即ち、天皇記とは、蘇我氏に公蔵されし、天皇秘書なり。国記また然りなり。然るに、由ありて、平将門の手に入りて、豊田神皇社にありきを藤原秀郷、秋田生保内に忍住せし将門の遺姫に届けしものと曰ふ。大巻の書なり。
文正丙戌年二月七日
竹内宗達
追而 天皇記は東日流の石塔山に平楓姫奉寄せりと曰ふ。余、是を写したるものなり。
右、追而如件。 宗達」
次に『天皇記』及び『国記』は後の天皇氏の皇統史にとって障りある文書であるとする文章を二つ紹介しましょう。
(5) 「丑寅日本記」第十“天皇記行抄 二”
「凡そ、倭国に天皇の創めて即位せしは、古事記、日本書紀、に記行せるより史実相違せるは明白なり。天皇とは支那天皇氏を風聞にして号したるは、百済聖明王が仏法を伝へしより添書に日本天皇とて当たるに創りぬ。
その以前にして号せるは倭王氏、明日香氏、蘇我氏、葛城氏、春日氏、奴氏、日向王氏、とぞ世襲に抜きたるを、倭国王と即位に選抜さるは、諸権の力量にて任解されたり。依て、天皇記にては、神代ぞ非らず。亦、神武天皇一世ぞあるべきもなかりけるなり。
天皇記を記しけるは、耶靡堆阿毎氏の崩滅より、伊理足志氏、多利思氏、阿輩氏、和珥氏、春日氏、磯城氏、蘇我氏、明日香氏、大神氏、生奈氏、日向氏、越王氏、出雲氏、奈古氏、等の出自に倭国王は成りて、万世一系にあらざるなり。
諸氏権謀術数にして、空位無王の年を長じ、支那三韓より偉を帰化せしめて成れる王ありき、依て、是、天皇記及び国記の巻ぞ、蘇我氏代々の掌中に秘蔵さるに、天皇氏、勢を為して、国史帝事記を固定せるに当り、是の如き天皇記、国記、の既存せるを障害として、蘇我氏に是を呈上せるを再々度に請令せど、時の蘇我蝦夷、応ぜず、中大兄王、船史恵尺に令し、蘇我氏討伐の軍を差向けたりしも、蝦夷、自刃して目当なる天皇記、国記、の虚在奪取ならず、甘橿宮を[宀/火]りて、蝦夷、既築の陵をことごとく土除きて石室去棺を壊砕して探せど見付くるなし。是至るは、既にして蝦夷、心得て、坂東の和銅山に移封して、密々に人の知る能はざるなり。
[宀/火]は、ウ冠に火。JIS第4水準ユニコード707E
風聞、天皇氏に達して、東国丑寅に密使を以て探求し亦、征夷として要虚を略す、然るに得る事、能はざれば、諸々転々、安倍氏に在りとて倭朝挙げて丑寅を攻め抜き、前九年の役をして抜けども当らざるは天皇記、国記、の行方にて、源氏は是の密令を代々に奉じ、平泉の役をして藤原氏を落せども当らざりき。(原漢書抜天皇記)
正平六年十月二日
三河住人 橘秀継」
以上を見ると分かります。
天皇記を記しけるは、耶靡堆阿毎氏の崩滅より、伊理足志氏、多利思氏、阿輩氏、和珥氏、春日氏、磯城氏、蘇我氏、明日香氏、大神氏、生奈氏、日向氏、越王氏、出雲氏、奈古氏、等の出自に倭国王は成りて、万世一系にあらざるなり。
とあります。
記紀を正史としている為、天皇は万世一系といわざる負えないのです。
以下のHPより、
https://ameblo.jp/hideakirael/entry-12428820220.html
また、天照大神はヤーウェの娘であり、ラエルとは異母兄弟になります。
アマテラスは、アジア系生命創造グループのリーダーです。
縄文文明、邪馬台国、BC5000年まで
邪馬台国について
支那の旧唐書(くとうじょ)という歴史書に、そのことがはっきりと書かれているのです。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名」というのがそれで、意訳すると「日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」と書かれているのです。
つまり、九州王朝と畿内王朝は、「どちらもあった」わけです。
この「旧唐書」というのは、完成したのが945年で、魏志倭人伝よりも600年ほどあとの時代のものです。
記載された内容は、唐の成立(618年)から滅亡(907年)までの約300年間の出来事で、その中に「倭国伝」と「日本国伝」があります。
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1909651242401934&id=1598458680187860
三森輿志郎 邪馬臺国の位置は、二元論で一ヶ所に限定する事に大きな間違いが。
更に読み方に決定的な間違いが大きい。
『臺』は、3世紀の古代中国には『To』と発音していた。
これを無知でバカな歴史学者が無理やり、『Tai』と読ませ、『卑弥呼』の後継者『臺與』を『Toyo』と読ませている。
3世紀の『臺』の発音は『Tai』なのだ。
従って『邪馬臺』は『YAMATO』と発音するのが、正しいと言える。
『大和』は、ヘブル語『Yama・ ut』が語源で『神の民』である。
『臺』は、3世紀の中国語の発音『To』で読むべきで、20世紀の日本語の『Tai』の発音で読むべきではありません。
なぜなら、当時の倭人の発音を、中国人が漢字で当てはめたからで、二十世紀の『臺』の発音を当てはめる事に、大きな間違いが有るのです。
中国語の『言語の発音の歴史』の立場から、論ずるべきで、日本の歴史学者の脳ミソは、幼稚であり、バカで話しにな りません。
ことらの日記の解説
kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2014_01/2014_1_30.html
2014/01/30 - ここで学ぶ皆さんには既に常識に成っている、中国製の日本書紀の内容です。
古事記が最古の書ですが、日本書紀は、その後に中国の偽造文献の内容を取り入れました。捏造は中国の国技です。
それが魏志倭人伝に有るという、邪馬台国や卑弥呼のことなどです。
既に述べたように魏志倭人伝は偽書です。そして日本書紀の邪馬台国も虚偽記載です。こんなものが正史とはとんでもないことです。
邪馬台国とは、出雲朝、倭国(ヤマト国)です。卑弥呼は出雲朝から神倭朝の神功天皇に践祚したのです。
邪馬台国は古事記には掲載されていないのです。無かったので、当然です。
kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2013_01/2013_n12_11.html
2013/12/11 - ヤハヴェの神、田中大神は出雲朝では、12代 美呂浪(ミロナミ)と呼ばれました。
ご本人によると、これが本当の名前です。日本神話では事代主、倭健などとも呼ばれます。
謎に包まれていた邪馬台国は出雲朝の神蹟だったのです。そして、祐徳稲荷の奥社も邪馬台国だったのです。 出雲朝(邪馬台国)の遷都回数は23回ほどになるそうです。 邪馬台国の「やま」は「八間」と書くとイエメンの胎蔵界、マリブなどです。もちろん山も当たりです。
これが山窩文字の、三五の桐、です。
日本の誇る、偉大な朝廷の文字です。数えたら35番目でした。
・・文字通り、日本の開運だそうです。
稗田阿礼尊に感謝です。倭に山戸を当てるのも正解です。倭は円墳、竪穴式住居もそうです。
朝廷が関西に言ってから大和が当てられたのです。
その倭はこれです。。川の字に見えます。
川とは「かわ」で、先祖(か)は倭人という事です。
川島町は「かわじままち」です。「わじま」は継体天皇だそうです。継体天皇の子孫、皇族です。
確かに、あれだけ古墳、皇居などの跡が在ると、そうも言えるかと思います。
継体天皇の神璽です。インドのスチューパです。丸墓山の姿です。丸墓山頂上の石は、バカ役人が撤去してしまったのです。
以下BCです。
13000年前、青森県津軽半島大平山元遺跡(おおだいやまもといせき)縄文文明、以外にプマプンク遺跡(H型遺跡、ティワナク遺跡から1km)は、巨人族が作った、ラッパの音で空中に浮き運ばれた(アイマラ族の伝承)
10000年前、エジプトのピラミッド、スフィンクスが造られた(オリオンの3星、朝廷マーク五七の桐はこれを表す)エジプト文明
六甲山巨石文明、カタカムナ文明
トルコギョベックリテペ遺跡(オリオンから降臨の民が建造)
7500年前、鹿児島県霧島市上野原遺跡
7000年前、北海道函館市茅部町垣ノ島遺跡(赤漆と黒漆の文様土器)
6400年前、メルブ遺跡、マルギアナ文明、トルクメニスタン(ことらの日記でゆう日本開闢)ジャルモ期
石川県犀川上流にヤマト(倭)国建国
5500年前、シュメール文明、ウバイド文化エリドゥ
まだ、他にもあるでしょう!