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耶靡堆国(耶馬台国)の成立

耶靡堆国(耶馬台国)の成立、このHPが見れないので、以前セーブした内容を書きます。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kosikode/outyo.html

 後期旧石器時代、今から一万四千年前になると日本列島は細石刃文化におおいつくされる。これらはシベリア極東地方から中国東北部にかけて見られるが、このころ、中国大陸から日本列島の北海道、東北、北陸、新潟、長野、長崎などへ渡来した人々がもたらした文化と考えられる。さらに一万三千年ほど前の中石器時代になると中国大陸から土器文化を携えた人々が九州、山陰、四国、中部地方へと渡来したと考えられる。かくしてここに縄文文化が花開くことになるのである。定説では、西日本にあっては縄文晩期から北九州にいち早く水田稲作によって米を生産する文化、すなわち弥生時代が到来していたのであるが、それに対して東日本は、縄文期を通じて新しい文化には保守的であった。
 ところで、王国、または国の概念とは何だろうか。東日流の諸資料に次のように見えている。「はじめに国に境なく人々適地に住む、亦、望む所に移りて勝手たるも、人、追日に多く生れ、住むる地に幸貧しくなりければ、餌に争い恵幸の地に争いて攻防し、人集いて邑造り、狩猟領域を巡り、他者の侵駐を追ふる攻防ぞ、護国と国造りの創めなり」。
 そして、この間の事情を次のように伝えている。

支那三皇の辛丑年、日本奥州に阿蘇辺族王国を起す。
支那神農氏の辛丑年、日本に耶馬台国王朝建国し、荒覇吐五王制をもちて日本本州百八十県を統治す。
支那黄帝の癸巳年、日本国筑紫に熊襲族王国を起す。
支那五帝の辛丑年、日本国出雲に王国起り、初帝を蘇賀王とす。
支那少昊の癸丑年、日本奥州に大挙せる移民、坂東に住み、日高見王国を建国す。初帝を多毛宇津と称す。
支那[*][王頁]の丁卯年、日本奥州東日流に津保化族王国起り、阿蘇辺族王国と併合す。

[*]は、揣に頁、手編ナシ。JIS第3水準ユニコード9853
[
王頁]は、王偏に頁。JIS第3水準ユニコード980A

 これらは、今から四千三百四十年~四千九百年ほど前のことである。次いで、
支那夏王朝起りし頃、日本筑紫に高砂族が漂着し、島津に土着なして王国を築き、この民の故地を高天原国と称したという。これは、今を去る四千百八十年~四千百九十年ほど前のことである。

 このように、縄文中期から後期にかけて、東日流に阿蘇辺王国(後、津保化王国と併合)、畿内に耶馬台王国、筑紫に熊襲王国、出雲に出雲王国、坂東に日高見王国と次々に王国が建国された。ところで、この中で耶馬台王国は四千五百九十年~四千八百九十年ほど前に建国され、当初は耶摩堆(やまたい)国と呼ばれたという。第一祖を耶摩堆日子(やまとひこ 彦)とも、阿毎(あめ)氏とも称したらしい。
 この一族はユーラシア大陸から満州、朝鮮を経て越州に上陸し、もともとは加賀の犀川の水上、三輪に居住し、白山神の司、豊炊姫を室としていたが、四辺の国々が乱れているのを鎮圧し、国を攻め取り、百国(郷族百八十国とも)を一統して耶摩堆国を建国した。かくして、耶摩堆国明日香の箸香の山を三輪山と号し、加賀の三輪山神を移して三輪山大神とし、さらに大杉にこもれる白蛇神を大物主神として祀ったという。
 そして、三輪郷蘇我に高御倉を築いて中央とし、当地の蘇我氏、箸香氏、師磯氏、明日香氏東西南北の離領王として中央なる領の阿毎氏と一国に併王、これをあわせて耶摩堆五畿とし、地主・長老相議の上で高御倉に即位したと。その子には、御嶽(うたき)彦、御海(うんぢやみ)彦の二男子のほか、箸香姫、明日香姫、咲耶子姫、振部姫、日御子姫、白子姫ら六人の女子があり、それぞれ族勢盛んな族主に縁組して耶靡堆国は栄えたという。
 この後、耶摩堆国は国号を耶馬臺(やまたい)国と改め、この国の下に筑紫を耶馬壹(やまいち)国、南海道を耶馬弐国、出雲を耶馬参国、東国を耶馬四国と称したとし、耶馬臺国は畿内、筑紫の王国は耶馬壹国と明白に区別している。このことは現在の邪馬台国畿内説と北九州説の論争に何かしらの指標を与えるものではなかろうか。
 この王朝は八百二十三年続いたとされるが、時を経て、耶馬台族五十三代安日(あび)彦王の頃、耶馬台族は五王の制を設けて国を統治したという。
 これは中央の正王を中心に東西南北に補王を置く制で、中央三輪山蘇我郷箸香に安日彦王、東方膿駒山富郷白谷に弟王長髄彦(ながすねひこ)王、西方大峰山天井郷に磯城彦王、南方葛城山茅原郷に宇加志彦王、北方白山三輪山犀川に八師彦王の五王である。
 かくして、その勢力範囲は五畿七道に及んだとされている。五畿とは畿内すなわち、木之国、高尾張国、浪華国、明日香国、大津国のことであり、さらに次の七道の国の王がその傘下に入ったとされている。
 すなわち、西海道猿田彦南海道の宇彌彦、山陽道の南嶋彦、山陰道の於呂地彦、東海道の恵弥須彦、日高見道の鹿嶋彦、羽越道の[田比]畔彦の七国主である。さらに氏族としては、物部氏熊襲氏、日高見氏、坂東氏、出雲氏、猿田氏、越氏、海道氏、淡氏、都母氏、木氏、阿蘇がその傘下に入った。

[田比]は、JIS第3水準、ユニコード6BD7

 

佐怒王(さぬおう)の東征

 ところが支那釐(りん)王(紀元前六八一~六七七)の辛丑二年に筑紫日向、高砂族の佐怒王が耶馬台国への東征を奸策し、時の日向王五瀬彦を総大将に壬寅三年、日向を進発、豊の宇佐から岡田、安芸に転戦したが、耶馬台軍はこれを妨ぐこと七年に及んだという。しかし、この間、出雲族が日向軍側に廻ったため耶馬台軍は耶馬台の故地に撤退し防衛を固めた。
 一方、日向軍は高島で侵攻の戦備をし、南海道、山陰、山陽の兵を募って、八年後の癸丑九年、八百艘の軍船で浪華の津に上陸したが、大将五瀬王が討死。己未十五年、日向軍の佐怒王が自ら将軍となって耶馬台国を攻めた。この時、長髄彦は深傷を負って退き、安日彦の援軍もまた敗れ、翌庚申十六年、ついに一族を挙げて東国に退去した。
 翌辛酉十七年佐怒王は耶馬台国を攻略して立君し、神武天皇として大和王朝を興し、日本紀元を称したとされているが、耶馬台国への征戦は、この後なお二十八年に及び、佐怒王の立君はなかったと、東日流の資料は伝えている。

東日流王国の成立

 このころ、中国、晋の群公子一族の間に内乱があり、その遺臣、遺族が大船十七艘(八艘とも)で東日流西浜に漂着し、永住したという。
 東日流の稲作は、実に群公子一族が持ち来たった「ほこね」「いがとう」の二品種の稲種によって、この時から始められたと伝えられている。
 一方、耶馬台国では佐怒王の東侵に敗れた安日彦王と長髄彦王が会津で再会し、耶馬台一族とともに丑寅の地、東日流に落着して、群公子一族の遺姫秀蘭とその妹芳蘭と婚じ、群公子一族と併合した。さらに先住民である阿蘇辺族、津保化族をも併合、その四族を合わせて荒覇吐(あらはばき)族と総称し、東日流大里のカムイ丘(亀ケ岡)、三輪郷(弘前市三和砂沢遺跡)、稲架(いなか)郷(田舎館村垂柳遺跡)、栗石郷(黒石)などに拓田し、稲作を興して国が成ったと伝えている。
 初代国王即位の式は、古来、津保化族の聖地であった石塔(いしのとう)山の塔前陽仰門で挙行され、荒覇吐王一世として安日彦王を中央正王に、長髄彦王を副王とし、北王に比利加志エカシ、南王に日奈礼彦、西王に蘇我宇奴、東王に宇鹿摩を配し、荒覇吐五王とした。
 この時統一した国は百七十国であり、その組織は、部の民の村落に二十カ村を束ねる長老をエカシとし、四十カ村を束ねる者をオテナとし、その上に郡主、郡主五人を束ねる者を県(あがた)主とし、その総政を司る者が分倉(わけぐら)王、すなわち四王の一人である。そして、この四王を総括するのが中央高倉(たかぐら)王である。この制度は耶摩堆国の制度を継承したものだという。
 さらに、信仰においては、耶馬台一族の白山神、三輪山大神に自然信仰の地神を併せ、天なるイシカ、地なるホノリ、水なるガコの神(かむい)を荒覇吐(あらはばき)神と総称して石塔山に祀り、統合の国称も日乃本国と称したと伝えられており、これが東日流王国のはじまりであるとされている。
 時に支那(東周)恵王甲午二十五年(襄王庚午元年説もある)と伝えられる。
 この後、耶馬台族が持ち来たった稲種もあったが、晋の群公子一族の稲種の方が地に適しており収穫が良かったので、水田が振興され、東日流の国も大いに富んだという。
 東周王朝考王の癸卯三年には東日流王国ではカムイ丘に神殿を建て六万人の荒覇吐族が参集して大祭を催し、さらに中山石塔山においても大石塔を築塔して大祭が挙行されたと伝えられている。しかし、岩木山八甲田山の爆発によって東日流大里は降灰の被害や水害やらで荒覇吐王五世の荷薩丁(にさつてい)王の時、荒覇吐王政所を荷薩丁に移して、さらに四王を羽州高清水、渡島夷王山、陸州閉伊、磐州田村に移し、東日流の地を荒覇吐神聖地として祭事所としたという。

 

耶馬台国の奪還

 このようにして荒覇吐王宮も東日流から秋田の鹿角(かづの)、岩手の閉伊(へい)、久流間(くるま)などに移り、次第に日高見川(北上川)に沿って、南へと遷宮して行くこととなるのである。
 そして、新地の開拓とともに、秋田の熟(にぎ)族、岩手の麁(あら)族を併合、さらに治領を拡げ、五十九代讃日彦王の時には、王自ら支那に赴き、馬を得て支那馬術チャバンドウを習練し、ここに日之本国に初めて騎馬軍が起こったという。
 また、支那周王朝安王と交わり、安東将軍を称したとされている。なお讃日彦王の時、秋田で地より湧く油を見つけ(石油?)、これを軍用に使用したともいう。
 この後、六十一代済糠彦王が立君し、荒覇吐族騎馬軍は五万騎に達し、祖国耶馬台国奪回の軍策を常に企て、倭の那古(現在の名古屋市付近)まで至った。そして六十二代武波日彦王(大根彦、日之本国荒覇吐王十一世)の時、荒覇吐族の念願であった故地耶馬台国すなわち倭国を攻めて、これを奪回し、武波日彦王の子の根子彦を日之本根子彦国奉天皇として耶馬台国王に立君せしめたのは、秦始皇帝丙辰元年(紀元前二二一)のことである。
 この根子彦王は記紀にいう八代孝元天皇のことだとされている。
 ところが、荒覇吐族の奥州の長老達は根子彦王の立君をよしとせず、荒覇吐五王の南王としては認めると長老会議で決議、坂東に興日彦王を立君し、これを日之本荒覇吐王国の正王とした。
 このため、耶馬台国にある武波日彦は荒覇吐族を脱し、自ら日本天皇として出雲、南海道、筑紫、山陽、山陰の統一の国主として王国を形成した。かくして日本国に両王朝が対立することになり、那古で両軍が対陣し、大いに戦うことになったのは、秦始皇帝の甲戌二十年のことだと伝えられる。
 この後、倭国には一統の王朝がなく、八十七の小国主が分立して天皇空位の時代が続いたが、前漢朝の中元壬辰元年(紀元前一四九)に荒覇吐系の孝元天皇の子、稚根子彦王が立君し、三輪山に即位して開化天皇と称し、倭国は再び統一された。
 開化天皇の立君によって、畿内を中心に出雲、筑紫、内海、南海道、那古、木国、越、濃などの国を併せ、濃州の押領堺を基点に、荒覇吐族から完全に分離して、坂東阿毎川(安倍川)より越州糸魚川に至る境界で東西に分国(いみじくもこの線にはフォッサマグナが走っている)し、西を倭国、東を日高見国と呼び、日本国の中に二つの王国が併立することになり、倭国の大和王朝側から東の日高見王国の人々、すなわち荒覇吐族の人々は蝦夷(えみし)と呼ばれるようになった。

伝承を証明する遺跡発掘調査

 これまで書き綴ってきた事柄は、すべて東日流の諸資料、すなわち『東日流外三郡誌』をはじめとする『内三郡誌』『六郡誌』『六郡誌大要』『古事録』『陸奥風土記』『奥州風土記』『陸羽古史抄』『石塔山荒覇吐神社秘伝』などによるものであり、その成立は寛政年間~文政年間(一七八九~一八三〇)である。
 すべてが史実というわけではなく、伝説や伝承もおびただしく混在している。また、現存資料は明治年代に写し取られた再写本であるので、最終成立は明治四十三年であるともいいうる。その後の調査で最終写本は大正六年であることがわかった。したがって、これを史実とするには一つ一つ学術的に証明する必要があろう。
 しかし、近年発掘調査が進むにつれて、全国的にそれが証明されつつある。
 青森県内においては、昭和五十六年に垂柳遺跡、昭和六十二年には砂沢遺跡から水田跡とみられる約二千二百年前の稲作遺跡が発掘されて、日本農耕史を書き換えることになった。
 また、昭和五十九年、東津軽郡平舘村今津遺跡からは、約二千五百年前に当たる縄文晩期の大洞C 式土器とともに鬲(れき)状三足土器が出土している。これは紀元前三千年前の中国の仰紹(ヤンシャオ)遺跡で発掘された、米の煮炊きや甑(こしき)を上にのせて蒸すのに使用した土器と同じ形であり、米の栽培なくしては考えられない遺物である。
 さらに驚くべきに、昭和五十九年に島根県簸川(ひかわ)郡斐川町荒神谷遺跡から三百五十八本の銅剣、その翌年には六個の銅鐸十六本の銅矛が発掘されたが、それらにそっくりの銅製品が、皮斬(かわきり)という青竜様の青銅器とともに、開化天皇の命によって荒神谷に埋蔵されたと記述されているのである。
 東日流の諸資料が今後の遺跡発掘調査によって、ますます学問的に証明されることを祈って拙論を閉じる。
(『歴史読本』臨時増刊「特集異端の神々と謎の古代文字」より再録)