縄文時代 日本王国とは
以前、放送されたそうです、結構消されてます。探すとでてきます。
歴史ミステリー 関東に謎の日本王国があった?3
https://www.dailymotion.com/video/x12a2t3
関東日本王国は存在した!?
https://www.youtube.com/watch?v=XsWotPGWdio
2015/10/28 に公開 7:44
テレビ東京「新説!?日本ミステリー」の「世紀の巨大プロジェクト 関東・謎の日本王国を暴く!?」から。
http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-316.html
①古墳の数が多い。関東地区・古墳数38000基で、大和王権古墳数29900基と数で上回っている。また関東地区の古墳は利根川流域に数多く分布している。
②埼玉県行田市のさきたま古墳群は、千葉県の鋸山周辺で採れる石を使っていることが分かった。こういったことからも関東平野に巨大な勢力が存在していたことになる、としている。
③埼玉県東松山市の反町遺跡からはハマグリの貝殻が発掘された。これらの海のものは、川を使って運んでいたことが分かる。
④埼玉古墳群のあたりは「さきたまの津」と呼ばれていた。つまり、津=港である。また古墳の周辺には住居跡がかなり多く見つかっており、権力者による集落が形成されていたことが分かる。
⑤川沿いに開けた大きな集落があったことも分かった。豪族居館の数では、福岡では7つ、奈良が8つ、埼玉周辺が18つと多い。(ただ番組では埼玉と紹介されているが、豪族居館は群馬が圧倒的に多いはず)
⑥埴輪の発掘数が、大和王権812点に対し、関東913点と多い。関東の埴輪は武人像、太刀、馬など武器が多いのに対して、近畿の埴輪は家財、家などが多い。2つの国には違いがある。
⑦高崎市観音塚考古学資料館にある「馬具をつけた馬の歯」の遺跡を紹介。「もともと日本には古来の馬がいなかった」といった説明があった。魏志倭人伝には「(倭国には) 牛、馬、虎、豹、羊は無し…」という記述があり、日本には元々馬はいなかった、ということを強調している。また、さきたま古墳に埋葬されていた人物の副葬品として「馬具」が多く、畿内よりも関東の方が馬具の出土数は圧倒的に多いという。馬具出土古墳数、畿内380基、関東760基。古代の馬牧場数は畿内が0、関東27つ。
東毛周辺や伊勢崎市、旧境町には、多くの埴輪が出土しているし、埴輪としては唯一の国宝である「武人埴輪」が出土している
関東で馬を操った一大勢力 毛野族
「毛野氏」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E9%87%8E%E6%B0%8F、「毛野国」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E9%87%8E%E5%9B%BDまたは、「毛野族」などで検索すると面白い記事、興味深い説がたくさん出ています。
http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-315.html
かつて関東平野に「日本王国」が存在していたというもので、その証拠となるのが、群馬県から埼玉県にまたがって存在している古墳群だという。
行田市のさきたま古墳群
さきたま古墳公園 「行田市の市街地から南東へ約1kmにある「古墳群」は、大型古墳が集中していることで全国的に有名で、昭和13年8月に国の史跡として指定を受け、「さきたま風土記の丘」として整備、活用されていました。中でも丸墓山古墳は日本一の円墳といわれています。また、稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣は、115文字の銘文が持つ歴史上の意義から世間の注目を集めました。 昭和51年4月に、これら古墳群との調和のとれた、観賞、保護及び散策を目的とした公園を整備を進めています。」
さきたま古墳群配置図
http://ktmrj15.webcrow.jp/p11st/tpx0606st1.htm
形 |
主軸長 |
後円部径 |
後円部高さ |
前方部幅 |
前方部高さ |
時期 |
|
稲荷山 |
120 |
62 |
11.7 |
74 |
10.7 |
5C後半から末 |
|
二子山 |
138 |
70 |
11.30 |
90 |
14.9 |
6C初頭 |
|
53 |
30 |
3.4 |
30 |
3.3 |
6C前半 |
||
丸墓山 |
円墳 |
105 |
- |
18.9 |
- |
- |
6C前半? |
瓦塚 |
73 |
36.5 |
5.1 |
47 |
4.9 |
6C前半から中頃 |
|
奥の山 |
70 |
43 |
6.8 |
47 |
7.4 |
6C中頃 |
|
鉄砲山 |
109 |
55 |
9.0 |
69 |
10.1 |
6C後半 |
|
将軍山 |
90 |
39 |
不明 |
68 |
9.4 |
6C後半 |
|
中の山 |
79 |
42 |
5.1 |
44 |
5.4 |
6C末から7C初め |
|
浅間塚 |
円墳 |
58 |
- |
8.7 |
- |
|
6C? |
戸場口山 |
方墳 |
一辺40 |
- |
- |
- |
|
7C前半から中頃 |
さきたま古墳には2000を超える古墳があったそうです、鴻巣古墳にもいっぱいあったそうです。地名として残っています。ことらの日記では詳しく解説しています。
生出塚神社 出雲朝 誉田別命 安閑天皇 清寧天皇 日本王国
鴻巣市は、かつて天邪志国、武蔵国(むさしのくに)の国府です。
鴻巣(こうのす)は皇の祖、甲の州、国府巣です。 その最初が市立生出塚保育所 の土地にあった神社だったそうです。この時の地名はノアだったそうです。 ノア 神社に祭られるオキネさんは、天邪志国と言うのは侵略者だったといっています。 また、「おいねづか」は「おき(ひ)ねづか」が本当だと言っています。神社の由緒の下、安閑天皇の内容をご覧ください。 生出塚神社の由来. 安閑天皇様によると、創建されたのは神倭朝22代 清寧天皇様だそうです。
常世岐姫神社
〒361-0033 埼玉県行田市渡柳 (わたりやなぎ) 1479
渡柳村の村社だそうです。
創立の年度不詳(何時からあるのか解らない)と書いてあります。無理もありません。
私も、当初は全く解りませんでした。
ここは埼玉古墳でも、一番古いところだったのだそうです。日本の歴史の天神7代後半というところです。
御祭神の説明
常世岐姫命 遠い国から来た女性です。聖書でイブと書いてあります。 イシス神
菅原道真公 日本人は誰でも知っている天満天神、学問の神様です。梅の木、牛を大事にしました。
宇迦之御魂命 稲荷神様の筆頭の神様です。インド、ペルシャでミトラ神と呼ばれた方です。皇統の方です。
譽田別命 八幡神様の応神天皇の諱(いみな)です。「ほんだわけのみこと」と読みます。
建御名方命 諏訪大社の御祭神様、大国主の息子さんです。 アフラマズダ神
糠田氷川神社
鴻巣市糠田にあり須佐之男命(スサノオノミコト)と櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)を祭神にする(糠田)氷川神社は二間社流造千鳥破風(にけんしゃながれづくりちどりはふ)・軒唐破風(のきからはふ)付き柿葺き(こけらぶき)本殿で、尾垂木(おたるき)に龍と鳳凰の彫刻がされており、鴻巣市指定文化財となっています。
まだまだいっぱいあります。
https://ameblo.jp/japmasa778/entry-12213199538.html
ことらの日記の解説より
以前テレビでも放送されていた日本王国とは、出雲朝の八代から十代までのことです。
出雲朝は世襲ではなく、税金もとりませんでした。
八代様は国忍富、誉田別命(ほんだわけのみこと)です。その為、行田は忍町だったのです。
九代建御名方神、十代雍主日子(ミカヌシ) 日本名は天手力男命です。将軍山の主です。
テレビでも、日本王国の人は東北に逃げたと言っていました。その通りです。
しかし、その原因が嘘の歴史、日本書紀を捏造したフジアン藤原氏=中国人の侵略とは言いませんでした。
安閑天皇様に、当時の日本王国、出雲朝が始まった時の、誉田別命の皇居を教えて頂きました。
下忍神社だったそうです。その後、神倭朝の天皇に応神天皇として践祚されたのです。
既に1700年以上も前です。誉田別命は胎中天皇とも言われました。
27代安閑天皇様、22代清寧天皇様も、国忍富(くにおしどみ)の「クニオシ」名を頂いています。
これは動かぬ証拠です。
倭と大和、ことらの日記より
蘇る神代と三ノ耕地遺跡
蘇る神代 平成22年11月09日
http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikk_i2010_01/2010_01/nikki2010_11s.html
以前に垂仁天皇は、吉見にいたと日本の歴史に書きました。御所と言う土地あたりです。
その近くからは、三ノ耕地遺跡というのが発見されました。
ヲホドさんが言うには、ここが垂仁天皇の陵なのだそうです。
西にある古墳の多くが、中国人が歴史をでっち上げるために捏造したものだと気がついたなら、話は変わります。
こちらが三ノ耕地遺跡の発掘時の写真です。
ヲホドさんが言うには、暗黒の時代は朝鮮からの傭兵だった武烈天皇と呼ばれた人間のせいなのだそうです。勿論でっち上げだそうです。
この人間は、神倭朝22代の清寧天皇が、朝鮮から兵として雇ったのだそうです。
いつの時代も、傭兵が思い上がるので、真の天皇様も大変です。勿論、この人間も寝所で殺されました。当然です。
ヲホドさんが、日本書紀は、皆大嘘だと言っています。
ヲホドさんも、継体天皇と呼ばれるのは嫌だそうです。
ヲホド天皇の、娘のオキネさんも、群馬からの中島の侵略に苦労して、大和朝廷の兵を借りざるを得ませんでした。
そのため、大事な吉見(横見郡)を大和朝廷にとられ、真実が歴史の闇に消されてしまったのだそうです。
そして、東国の王ヲホドさんが、大和朝廷の天皇として、大友金村(イタ公)に呼ばれたのだそうです。
思い上がる傭兵の子孫などに、天皇は務まらないのです。
日本書紀や、多くの偽書に騙された研究者の皆さんは不幸だったかも知れません。
http://yoshida-kofun.in.coocan.jp/saiyosim1.htm
埼玉県比企郡吉見町
比企郡吉見町久保田 標高 14.2m 全長15m? 前方後円墳
吉見南小学校北東300mの田の中にあります。地元で「とうかん森」と呼ばれるように低い墳丘上に稲荷(とうか)祠があります。小型前方後方墳の一部が田んぼで削られています。帆立貝式古墳にも見える。田の導水路とは明らかに異なる周溝が見られる。詳細資料が見つからないが明らかに古墳。なぜこの平地に築造されたのか不明。光信仰の神イナリ(稲荷)祠がある。村落の共有地だったので現在も存在している。発掘しても石室や貴重な埋葬品はなさそうに見える。
比企郡吉見町久保田 縄文住居跡 前方後方墳3基 標高 15m
久米田の丘陵(山の上)下にあります。加曾利B式土器の出土から考えると縄文後期4000年前頃の遺構。その他、4世紀初の前方後方墳(1号墳長さ69m 2号墳長さ40m 3号墳長さ27m)が確認されている。 南北13.5m 東西7.3mの水場遺構は年代が判らない。縄文後期から人の営みがあり弥生文化の伝搬で水田が作られ水場遺構が残ったのであろうか。久米田の地名から良好な水田があったと思われる。地質的に鉄分を含んだ土壌。今でも田の水路に大量の砂鉄が見つけられる。数千年来人の営みがあったことが不思議だ。縄文時代は海が浸食してこの辺りの荒川は東京湾の一部だったのだろうか。古墳時代北西の行田、埼玉古墳群のある辺りには埼玉の海(湾)があった。南側の市野川の蛇行も考えられる。市野川の上流には古墳が多い。現在の地形からは想像出来ないが、居住に最適な場所だったのであろう。埋蔵品から見て、山の上の丘陵は猪、ウサギ、鹿など狩猟や木の実採集など適していたと思われる。
比企郡吉見町久米田山上 標高 22.5m 28m×26.2m 方墳 (方形周溝墓?)
久米田の北丘陵上にあります。墳丘稜と藪状態で方墳が確認できない。現在閉鎖された「埼玉県の文化財マップ」では久米田の丘陵上に山の上古墳群1号、2号墳、8号墳、山の上遺跡がマークされていた。1号墳は近づけない。2号墳と思われる墳丘は東側に墓が数基見られる。それ以上の踏み込みは困難。
比企郡吉見町久米田山上 標高 26.9m 円径10m 以下 円墳等
久米田の北丘陵上にあります。2号墳の西側に円墳とおぼしきマウンドが見られる。埼玉県美里324号墳に似た景観。地権者が古墳と認めて削平しかねているように見える。旧埼玉県文化財マップでは山の上古墳群、山の上遺跡とマークされていることから、数基の古墳があように思われる。藪状態で方墳が確認できない。現在の墓は丘陵上古墳に造られた墓に見える。丘陵下の久米田、三の耕地の住民の共同墓域が山の上遺跡。
比企郡吉見町和名 標高 28.1m 長さ5m 登り窯4基
人工溜池 和名沼の北西に埋め戻し保存されています。吉見町が財政的に苦しいのか、発掘情報や資料が乏しい。検索すると「古墳時代の埴輪は500℃以上で焼く」「登り窯が数基あった」とある。考古学的に正しくない。埴輪は土師器で高温を必要としない。登り窯と須恵器の出現は考古学的に五世紀後半と比定されていますが、須恵器の出現理由が考察されていません。浅井壮一郎著「古代製鉄物語」(彩流社)によると、物部氏、土師師は本来は製鉄族。沼鉄は低い温度で溶け製鉄する。鉄鉱石からの製鉄はさらに高い温度を必要とすると書かれている。初期製鉄の原料は沼鉄。葦、菰 蒲などイネ科植物の根に集まる鉄イオンの褐鉄鋼で溶解温度600~700℃の低温製鉄。この製鉄窯や野焼きで土師器を焼いた。5世紀中ごろ朝鮮の伽耶の存続が不安定になり、また鉄鉱石が枯渇した。伽耶の製鉄族(陶氏など)が日本列島に渡り、鉄鉱石を採り、製鉄を始めた。溶解のためにより高温が得られる登り窯や、斜面にトンネルを作る穴窯を利用。製鉄時以外は生活用品や埴輪などを焼いた。これが須恵器(陶質土器)の出現理由。製鉄用の登り窯の為には高温耐火粘土が必要。さらに原料鉄にリン酸鉄を含む黒土を加えると鉄の溶解温度が1130℃から950℃に下がる。砂鉄からの製鉄はさらに高温(1400℃)を必要とする。又動物の死骸を投入すると骨などに含まれるリンが融点を下げる(湯が沸く)。純粋鉄の融点1528℃。現在の高炉は1200℃。吉見の黒岩横穴墳の黒岩はリン酸鉄が採れたのではなかろうか?そこで改めて和名埴輪跡を見てみる。登り窯が数基ある。3,4基がすでに埋め立てられた場所は急峻な谷間だった。春先の季節風が吹くと登り窯に強風が送り込まれふいごの役目をして窯温度を高める。又製鉄は毎回窯を破壊して鉄を取り出す。その為作業ごとに登り窯の跡がたくさん残る。現在も和名近くの小川や水路から簡単に砂鉄が採取できます。和名の製鉄が鉱石か砂鉄か不明。 一般的に窯跡からの出土品はあまり注目されません。登り窯→埴輪→墓飾りは表面的な解釈で考古学会の怠慢。和名の窯と同時代に大量の埴輪を必要とする古墳が近隣にあったとは思えない。この地に窯が作られた要因に良質な粘土が採れる事が考えられます。
一般的に黒が付く地名は、金や鉄に関係します。黒鉱は閃亜鉛鉱、方鉛鉱、黄鉄鉱、黄銅鉱、重晶石、石英などからなる緻密な混合鉱石。銅、鉛、亜鉛、金、銀の原料石。日本海側の秋田など弟三紀緑色凝灰岩の分布地域に産する。
吉見町民俗学1 (民俗学:民間伝承を集め調べることによって、庶民層の伝統的生活様式、社会形態を明らかにするもの。一般庶民の生活・文化の発展歴史。先駆者 柳田国男、宮本常一)
粘土売り: (2016年3月 矢島製作所 矢島淳 氏から聞き取り)
和名の近くには粘土が採れる。明治時代まで粘土の塊を太さ径20cm、長さ30cmくらいの棒状にしてわらを巻き江戸、東京への販売を生業とした人が居た。
瓦の製造: かわら今昔 寄稿 石川初雄 抜粋。「吉見の昔ばなし」吉見郷土史研究会 吉見町立図書館 発行
吉見北地区を中心とした地域には良質な粘土が豊富にありました。地場産業として最盛期十一の粘土瓦製造工場があった。昭和十二年頃はすべて手作業。農地の表土を30cm位い削り取りその下の粘土を掘り出す。風化のため暫く屋外に晒す。土間の一部の「はこ」と呼ばれる場所に一定量の粘土に水を十分含ませる。「はこ詰め」された粘土を何度も切り返す(土練り)その塊がだんだん小さくなると10cmくらいの厚さに「ふね」の間に広げ、わらじをはいた足で踏み練る。それが終わると「横鍬」という特殊な用具で「土をおこす」作業を三~四回繰り返す。それを手で転がし太さ30cmくらいの棒状にして素材作りは終わり。・・・・以下省略
この土練りしたものを江戸に売りに行ったのが粘土売りの材料であろうか。
吉見百穴~埼玉県吉見町~ - 裏辺研究所
www.uraken.net/rail/travel-urabe414.html
日本における人類学の草分け的存在である坪井正五郎が、当時は東京大学の大学生だった1887(明治20)年に発掘を行ったもので、小人であるコロボックルの住居で、後に墓としても使われたと発表。しかし、 ... なお、太平洋戦争中に中島飛行機の地下軍需工場を建設するため、この地に碁盤の目状に坑道が掘られた際、吉見百穴にも3箇所の坑口が掘られ、遺構の一部が破壊されてしまいました。これは、 ... 古墳時代、4世紀の三ノ耕地遺跡からは木製の農具が良い保存状態で発見されており、非常に貴重。現在と ...
以下のHPを発見、地図に添付している。
https://magnoliachizu.blogspot.com/2015/?view=sidebar