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和田家文書と天皇記

私達は、初代天皇神武天皇から始まり今125代と教わります。

和田家文書を見ると違うことが分かります。以下のHPをみると

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou28/kaihou28.html

藤原氏の差配する天皇制は三転していたことが書かれています。

天皇制は図1. のように三転していたのである。

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私達が教わっている歴史は、三転した歴史であった。つまり創作されたのです。

以下のHPより

「和田家文書」に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史の考察   4

藤崎町 藤本光

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou71/kai07102.html

(1) 丑寅日本紀」第八“倭国天皇記国記之事”
 「倭国天皇記及び国記の編纂を大臣蘇我氏にて推古天皇の二十八年に上宮太子、嶋大臣謀りて録す。書記人に語部とて巨勢氏、平群氏、紀氏、葛城氏、蘇我氏、鴨氏、春日氏,を要言とし、伊奈氏,伊理氏,差保氏,保武氏、阿毎氏、箸香氏、二地氏、ら補言に編集せしに天皇記、成れり。
 然るに、国記に於てをや。倭国境を東海の安倍川より西海の糸魚川に地帯せるを境とし、丑寅方を日本国とて荒覇吐王を以て為せる国とせり。依て、その証を唐書に基かしめたり。是ぞ、倭国の国記成れるも、越、坂東、を押領に筆加ふる要言派、これを否せる補言派とに論を激し、茲に大伴氏、物部氏、竹内氏、橘氏、藤氏、を審とて補言派の論勝に決せり。時に、丑寅日本国にては、荒覇吐王居、武蔵大宮に在りて、此の域を安東と称し宗帝よりの賜号とせり。坂東に位せる安東将軍は五代に相継ぎて、讃美彦、珍美糟彦、斉糟彦、興美彦、武波日彦、と曰ふ。
 天皇記、国記、は蘇我氏の菅主たりしも、是を皇宮蔵管とせし中大兄皇子、船史恵尺(ふねのふひとえさか)ら、甘橿の蘇我蝦夷を攻め、火箭にて[/]り、不意なる攻めに、天皇記、国記、を石川麻呂にたくし、蝦夷は自刃せり。その後になる壬申の乱にて、左大臣蘇我赤兄、亡びたるも、天皇記、国記、は石川麻呂に依りて、遠けき坂東の武蔵国和銅釜萢邑なる荒脛巾神社に秘蔵し、倭朝の手に入らざりき故に、此の乱にて流刑となりき。
[
/]は、ウ冠に火。JIS第4水準ユニコード707E

蘇我氏滅亡以来、天皇記及び国記の行方知らざるに、大化乙巳の乱に焼失せりと、以来風聞にも、その所在、天慶の乱平将門が鎮護の眼にも留らず、亦、将門を討に藤原秀郷、この大事たるも知らずして、将門の遺姫が居住せし飽田生保内に住むる楓姫に届けらる。後世に此の書入箱、平泉なる白山神に奉納さるも、開箱されぬままにして、十三左衛門尉藤原秀栄に給はれしを、開箱なきままにして石塔山荒覇吐神社に奉寄されたるものなり。
    慶長丁酉八月廾一日
     飯積之住人 和田左馬之介」

 亦、次の様な文書もあります。

(2) 丑寅日本記」第七“陵墓改葬之事”
 「(前略)蘇我氏の陵墓を掘り荒したるは、中大兄皇子にて、八十日を土民を徴してあばきたり。即ち、天皇記の焼けざるを船史恵尺(ふねのふひとえさか)の報に依れる捜掘なり。終にして天皇記、国記、ら文書なきが故に、蘇我蝦夷、自刃にして住居をるときにぞ焼失しけると思いきや、事の兆を察せる蝦夷、加之書を高賀茂の公麿に秘蔵を頼みけるに、是を豊田郷の荒覇吐社に秘蔵せしを、世々に降りて平将門、此の社を神皇社とて祀りき。天慶の乱に討死し、藤原秀郷の菅領と相成りき。依て、此の社を取潰にせしとき、はからずもこの書管の入りたるを知らず、将門の遺品とて秋田生保内に住むる将門息女楓姫に届けたり。楓もまた是を見届けず、そのままにして東日流石塔山に奉寄せるものなり。天皇記は是くして奉寄されたるものなり。
     寛政五年八月一日
          和田長三郎吉次」

 更に大化改新以前の状況を伝える文書もあります。

(3) 丑寅日本史総解」“議嶋大臣蘇我馬子天皇記国記”
 「推古天皇二十八年より三十六年に至りて、天皇記及び国記を編纂、天皇記全六巻、国記六巻を筆了せるも、天皇崩じ、是を馬子奉持してより倭国一統の葛城王五畿七道を権握す。依て、三輪蘇我郷にありし馬子と併せし王朝を奉ぜしは、日向王磐井彦、春日王和珥氏、筑紫王奴氏、国東王大元氏、日本国王阿毎氏、日高見王多利思彦、坂東王阿輩鷄*彌氏、越王白山神王家六衆及び九龍氏、九首龍氏、三輪氏、犀川氏、出雲氏、河内王別和珥氏、那古王竹内氏にて、是れに抗したるは陸羽日本国の蒙氏、巨勢氏、平群氏、紀国の熊野氏、尾崎氏、朝熊氏、なり。
*は、「鳥」のかわりに「隹」。JIS第三水準、ユニコード96DE
 即ち、葛城氏、蘇我氏、に依る併合に警鐘を打ちければ、遂にして大化乙巳の乱起り、中大兄皇子、甘橿丘に蘇我氏を討伐し、天皇記、国記、を奪取せんとせしも、その将士船史恵尺、是を探得られず、焼失と断定す。
 右は大宝辛丑年小角伝より。
     元禄十年八月三日
              伊予記」

 『天皇記』及び『国記』が津軽に存在する様になった経過について、今一つの記述があります。

(1) 丑寅日本記」第七“天皇記、国記、之抄”
 「(天皇)倭国第一世之天皇以宗国(支那国之事)武帝之永初二年二月十日為倭国応神天皇還難波之津都宮云々。
 (国記)夫倭之国異丑寅之日本国其領界坂東之阿毎川東海水戸越之糸魚川西海水戸横断東北堺西南堺相裂堺在是可云々。
 即ち、天皇記とは、蘇我氏に公蔵されし、天皇秘書なり。国記また然りなり。然るに、由ありて、平将門の手に入りて、豊田神皇社にありきを藤原秀郷、秋田生保内に忍住せし将門の遺姫に届けしものと曰ふ。大巻の書なり。
    文正丙戌年二月七日
             竹内宗達

 追而 天皇記は東日流の石塔山に平楓姫奉寄せりと曰ふ。余、是を写したるものなり。
 右、追而如件。       宗達

 次に『天皇記』及び『国記』は後の天皇氏の皇統史にとって障りある文書であるとする文章を二つ紹介しましょう。

(5) 丑寅日本記」第十“天皇記行抄 二”
 「凡そ、倭国天皇の創めて即位せしは、古事記日本書紀、に記行せるより史実相違せるは明白なり。天皇とは支那天皇氏を風聞にして号したるは、百済聖明王が仏法を伝へしより添書に日本天皇とて当たるに創りぬ。
 その以前にして号せるは倭王氏、明日香氏、蘇我氏、葛城氏、春日氏、奴氏、日向王氏、とぞ世襲に抜きたるを、倭国王と即位に選抜さるは、諸権の力量にて任解されたり。依て、天皇記にては、神代ぞ非らず。亦、神武天皇一世ぞあるべきもなかりけるなり。
 天皇記を記しけるは、耶靡堆阿毎氏の崩滅より、伊理足志氏、多利思氏、阿輩氏、和珥氏、春日氏、磯城氏、蘇我氏、明日香氏、大神氏、生奈氏、日向氏、越王氏、出雲氏、奈古氏、等の出自に倭国王は成りて、万世一系にあらざるなり。
 諸氏権謀術数にして、空位無王の年を長じ、支那三韓より偉を帰化せしめて成れる王ありき、依て、是、天皇記及び国記の巻ぞ、蘇我氏代々の掌中に秘蔵さるに、天皇氏、勢を為して、国史帝事記を固定せるに当り、是の如き天皇記、国記、の既存せるを障害として、蘇我氏に是を呈上せるを再々度に請令せど、時の蘇我蝦夷、応ぜず、中大兄王、船史恵尺に令し、蘇我氏討伐の軍を差向けたりしも、蝦夷、自刃して目当なる天皇記、国記、の虚在奪取ならず、甘橿宮を[/]りて、蝦夷、既築の陵をことごとく土除きて石室去棺を壊砕して探せど見付くるなし。是至るは、既にして蝦夷、心得て、坂東の和銅山に移封して、密々に人の知る能はざるなり。
[
/]は、ウ冠に火。JIS第4水準ユニコード707E

 風聞、天皇氏に達して、東国丑寅に密使を以て探求し亦、征夷として要虚を略す、然るに得る事、能はざれば、諸々転々、安倍氏に在りとて倭朝挙げて丑寅を攻め抜き、前九年の役をして抜けども当らざるは天皇記、国記、の行方にて、源氏は是の密令を代々に奉じ、平泉の役をして藤原氏を落せども当らざりき。(原漢書天皇記)
    正平六年十月二日
         三河住人 橘秀継」

以上を見ると分かります。

天皇記を記しけるは、耶靡堆阿毎氏の崩滅より、伊理足志氏、多利思氏、阿輩氏、和珥氏、春日氏、磯城氏、蘇我氏、明日香氏、大神氏、生奈氏、日向氏、越王氏、出雲氏、奈古氏、等の出自に倭国王は成りて、万世一系にあらざるなり。

とあります。

記紀を正史としている為、天皇万世一系といわざる負えないのです。

以下のHPより、

https://ameblo.jp/hideakirael/entry-12428820220.html

マイトレーヤラエルは天皇家とは親戚にあたるそうです。

また、天照大神ヤーウェの娘であり、ラエルとは異母兄弟になります。

アマテラスは、アジア系生命創造グループのリーダーです。