mkana777jpのブログ

科学、真実の歴史、愛犬、環境、健康など書きたいと思います。

実に奇妙な戦い白村江の戦い

白村江の戦いとは、Wikiでは

    白村江の戦い(はくそんこうのたたかい[2][3]、はくすきのえのたたかい)は、天智28月(66310月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国百済遺民の連合軍と、新羅連合軍との戦争のことである。

マイペディア

663年,日本がに敗れた海戦。白村江(〈はくすきのえ〉とも)は朝鮮南西部の錦江(きんこう)河口付近の古名。かねてから百済(くだら)と争っていた新羅(しらぎ)は,高句麗(こうくり)と戦っていた唐と結び660年,ついに百済の都を占領,王らを捕虜としたので,百済の遺臣は日本に救援を求めた。大和朝廷は朝鮮南部の日本の権益を守るため,これに応じて大軍を派遣,斉明(さいめい)天皇中大兄(なかのおおえ)皇子らも北九州に本営を置いて指揮したが,天皇は病死。水軍は663年8月2728両日の海戦で唐の水軍に挟撃(きょうげき)されて大打撃を受けたので,朝鮮からすべての兵を引き揚げ,内政に専心することになった。

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画像はネットから

以下のブログが面白い。

http://nsy3.blog.fc2.com/blog-entry-62.html

 

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)っちゅうのが7世紀に有ったのねんが、これが実に奇妙な戦いでね・・。

  

  大和朝廷朝鮮半島の同盟国、百済を守るために合計3派、計47千人もの大軍を送り、唐13万・新羅5万の合計18万と戦ってコテンパンになって負けたと記紀に書いてあるのねん。そんなに軍人がいたのもビックリだが、一体どうやってそんなに船を集めたのかね~。有り得ない話しと思わん?

  

  それに、唐と新羅連合軍に負けた後、どうも大和朝廷にはほとんどお咎めが無かったどころか・・、当時の朝廷の権力者の中大兄皇子(後の天智天皇)たちは、ドンちゃん騒ぎの大はしゃぎだったんじゃないかっちゅう話しも有るくらいなのねんよ。戦争に負けたんでっせ?・・この間の太平洋戦争・大東亜戦争第二次世界大戦の敗戦国たる日本がどうなったかは、戦争を直接知らん世代の我々でも判るはずだよねん?・・そう・・責任を取らされるのよ。そして、結果が酷い場合には、国自体が無くなったりもするし、戦犯として裁かれる者もいるわけでんな。

  

  その理由はね・・もう判るかと思うけんども・・

 「倭」とは大和朝廷側のことを言ってるのではなくて、「姫氏國」もしくは、その流れを引く「九州王朝」のことだったから・・なのねん。

少なくとも「大陸の国が言う倭の国は大和朝廷では無かった」のねん!

 だから、唐・新羅の全権大使は、九州に来て戦犯として「筑紫君」他を連行しているようなのねん。でも畿内の朝廷にも郭務宗らが2000人規模で来てはいるが、どうもこれが挨拶程度のようなのねん・・。「筑紫君」こそが倭の王っちゅう証拠に思えるよねん?

 この白村江の戦いをしたのは九州王朝の「倭国」であって、「大和朝廷はほとんど何もしなかった」のねん。もっと言ってしまえば、

白村江の戦いは無かった!!」

 実際には倭国661年~662年に百済を助けに行ってるのねん。そして、倭国に人質として預かっていた百済皇子も連れて行ってる。そしてそこで大敗を喫したのねん。それは中国の歴史書にも「倭国と戦った」と書いてあるのねんけんど、白村江の戦い663年のことは書いてないのねん。大和朝廷がやったことは、戦後の後始末として百済に向かい、残存勢力と小競り合いをしつつ、百済の官僚・王族たちを連れ帰ったことだけなのねんな~。ね~・・ビックリだしょ~!

 

以下のブログにも詳しく書いてある。

https://blog.goo.ne.jp/mitunobu11/e/d794b670274ce457c430ea72833a2efd

 

 

ことらの日記では、偽書の記録以外には無かった。捏造です。

http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2013_01/2013_n12_3.html

白村江の戦いは中国朝鮮がやったのだそうです。皆捏造です。
・・中国(唐)による転利目的の捏造だったそうです。

 

http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2014_01/2014_7_25.html

天智天皇が知らないという白村江の戦い記録や、でっち上げの斉明天皇の墓などランドマークも沢山作り上げました。

 

http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2013_01/2013_n08_21.html

ふざけた白村江の戦いで日本大敗などというのも捏ち上げです。
そもそも、朝廷は鴻巣にあったのです。天智天皇も、白村江の戦いなど無かったと言っています。

 

http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2014_01/2014_3_27.html

額田姫をめぐる因縁や、九州王朝説など、全て嘘です。
天智天皇白村江の戦いも知らなかったのです。以前から天皇家周辺には敵国、バカチョンの草がいたのです。

 したがって不破の関などという話も的外れです。
弘文天皇によると戦いは27日間続いたそうです。最大の激戦地はここだったそうです。

府中市立南白糸台小学校

 

弘文天皇は母が伊賀の采女だったと言われています。
この母は壬申の乱2年前に殺されてしまったそうです。

 その為、天智天皇はこちらに祭ったそうです。
八千矛神大国主尊を祀る九万八千(くまはっせん)神社です。ここは大友皇子の母の古墳だったのです。

 訪問者様が取材してきてくださいました。
いつも感謝です。

 

http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2014_01/2014_1_2.html

アスは慈悲という意味もあるそうです。
ヨーロッパ以外の国にはたいてい慈悲という意味の言葉があるようです。特亜の国は除くようです。

 そしてアスは宇宙でもあるのだそうです。astro-は星、天体の接頭辞です。
アッシリアの人もアオイタ公に追われ日本に逃げてきたのです。この人達も出雲族です。

 允恭天皇出雲族の弾圧のため探盟深湯(くがたち)を行ったのです。
・・もちろん、良き天皇の皆さんは合議の上、允恭を天皇とは認めないそうです。

 ざっと古代天皇から除外すべきは、允恭、雄略、武烈、宣化、桓武・・などです。
(やまと)(出雲朝)に敵と成り、歴史記録を捏造させた者たちです。→「コン」

 その背後がアオイタ公、獣666、バチカン+バカチョンです。
メソポタミアのメとは邇邇藝命(ににぎのみこと)の星、火星です。ここもアスです。

 エジプトの地にもアスワンがあります。イシス神、常世岐姫の世界です。
天神7代後半は、地球の核、胎蔵界の指令、お地蔵様の世界です。

 天神7代前半は聖書で言う混沌の時代で、氣比(ケヒ)というのだそうです。

 この氣比がイソ(iso,五十)なのだそうです。地球の素はケイ素ですが混合中といったところです。
星ができると、指令であるお地蔵様が住まれ、日本が開闢したわけです。日本以下はおまけのようです。そのため、日本の侵略はありえません。

 南京大虐殺も無かったのです。日本が侵略などバカチョン共の捏造です。
白村江の戦いすら、偽書の記録以外には無かったのです。これもふざけた話です。

 

など、いっぱいでてきます。

 

耶靡堆国(耶馬台国)の成立

耶靡堆国(耶馬台国)の成立、このHPが見れないので、以前セーブした内容を書きます。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kosikode/outyo.html

 後期旧石器時代、今から一万四千年前になると日本列島は細石刃文化におおいつくされる。これらはシベリア極東地方から中国東北部にかけて見られるが、このころ、中国大陸から日本列島の北海道、東北、北陸、新潟、長野、長崎などへ渡来した人々がもたらした文化と考えられる。さらに一万三千年ほど前の中石器時代になると中国大陸から土器文化を携えた人々が九州、山陰、四国、中部地方へと渡来したと考えられる。かくしてここに縄文文化が花開くことになるのである。定説では、西日本にあっては縄文晩期から北九州にいち早く水田稲作によって米を生産する文化、すなわち弥生時代が到来していたのであるが、それに対して東日本は、縄文期を通じて新しい文化には保守的であった。
 ところで、王国、または国の概念とは何だろうか。東日流の諸資料に次のように見えている。「はじめに国に境なく人々適地に住む、亦、望む所に移りて勝手たるも、人、追日に多く生れ、住むる地に幸貧しくなりければ、餌に争い恵幸の地に争いて攻防し、人集いて邑造り、狩猟領域を巡り、他者の侵駐を追ふる攻防ぞ、護国と国造りの創めなり」。
 そして、この間の事情を次のように伝えている。

支那三皇の辛丑年、日本奥州に阿蘇辺族王国を起す。
支那神農氏の辛丑年、日本に耶馬台国王朝建国し、荒覇吐五王制をもちて日本本州百八十県を統治す。
支那黄帝の癸巳年、日本国筑紫に熊襲族王国を起す。
支那五帝の辛丑年、日本国出雲に王国起り、初帝を蘇賀王とす。
支那少昊の癸丑年、日本奥州に大挙せる移民、坂東に住み、日高見王国を建国す。初帝を多毛宇津と称す。
支那[*][王頁]の丁卯年、日本奥州東日流に津保化族王国起り、阿蘇辺族王国と併合す。

[*]は、揣に頁、手編ナシ。JIS第3水準ユニコード9853
[
王頁]は、王偏に頁。JIS第3水準ユニコード980A

 これらは、今から四千三百四十年~四千九百年ほど前のことである。次いで、
支那夏王朝起りし頃、日本筑紫に高砂族が漂着し、島津に土着なして王国を築き、この民の故地を高天原国と称したという。これは、今を去る四千百八十年~四千百九十年ほど前のことである。

 このように、縄文中期から後期にかけて、東日流に阿蘇辺王国(後、津保化王国と併合)、畿内に耶馬台王国、筑紫に熊襲王国、出雲に出雲王国、坂東に日高見王国と次々に王国が建国された。ところで、この中で耶馬台王国は四千五百九十年~四千八百九十年ほど前に建国され、当初は耶摩堆(やまたい)国と呼ばれたという。第一祖を耶摩堆日子(やまとひこ 彦)とも、阿毎(あめ)氏とも称したらしい。
 この一族はユーラシア大陸から満州、朝鮮を経て越州に上陸し、もともとは加賀の犀川の水上、三輪に居住し、白山神の司、豊炊姫を室としていたが、四辺の国々が乱れているのを鎮圧し、国を攻め取り、百国(郷族百八十国とも)を一統して耶摩堆国を建国した。かくして、耶摩堆国明日香の箸香の山を三輪山と号し、加賀の三輪山神を移して三輪山大神とし、さらに大杉にこもれる白蛇神を大物主神として祀ったという。
 そして、三輪郷蘇我に高御倉を築いて中央とし、当地の蘇我氏、箸香氏、師磯氏、明日香氏東西南北の離領王として中央なる領の阿毎氏と一国に併王、これをあわせて耶摩堆五畿とし、地主・長老相議の上で高御倉に即位したと。その子には、御嶽(うたき)彦、御海(うんぢやみ)彦の二男子のほか、箸香姫、明日香姫、咲耶子姫、振部姫、日御子姫、白子姫ら六人の女子があり、それぞれ族勢盛んな族主に縁組して耶靡堆国は栄えたという。
 この後、耶摩堆国は国号を耶馬臺(やまたい)国と改め、この国の下に筑紫を耶馬壹(やまいち)国、南海道を耶馬弐国、出雲を耶馬参国、東国を耶馬四国と称したとし、耶馬臺国は畿内、筑紫の王国は耶馬壹国と明白に区別している。このことは現在の邪馬台国畿内説と北九州説の論争に何かしらの指標を与えるものではなかろうか。
 この王朝は八百二十三年続いたとされるが、時を経て、耶馬台族五十三代安日(あび)彦王の頃、耶馬台族は五王の制を設けて国を統治したという。
 これは中央の正王を中心に東西南北に補王を置く制で、中央三輪山蘇我郷箸香に安日彦王、東方膿駒山富郷白谷に弟王長髄彦(ながすねひこ)王、西方大峰山天井郷に磯城彦王、南方葛城山茅原郷に宇加志彦王、北方白山三輪山犀川に八師彦王の五王である。
 かくして、その勢力範囲は五畿七道に及んだとされている。五畿とは畿内すなわち、木之国、高尾張国、浪華国、明日香国、大津国のことであり、さらに次の七道の国の王がその傘下に入ったとされている。
 すなわち、西海道猿田彦南海道の宇彌彦、山陽道の南嶋彦、山陰道の於呂地彦、東海道の恵弥須彦、日高見道の鹿嶋彦、羽越道の[田比]畔彦の七国主である。さらに氏族としては、物部氏熊襲氏、日高見氏、坂東氏、出雲氏、猿田氏、越氏、海道氏、淡氏、都母氏、木氏、阿蘇がその傘下に入った。

[田比]は、JIS第3水準、ユニコード6BD7

 

佐怒王(さぬおう)の東征

 ところが支那釐(りん)王(紀元前六八一~六七七)の辛丑二年に筑紫日向、高砂族の佐怒王が耶馬台国への東征を奸策し、時の日向王五瀬彦を総大将に壬寅三年、日向を進発、豊の宇佐から岡田、安芸に転戦したが、耶馬台軍はこれを妨ぐこと七年に及んだという。しかし、この間、出雲族が日向軍側に廻ったため耶馬台軍は耶馬台の故地に撤退し防衛を固めた。
 一方、日向軍は高島で侵攻の戦備をし、南海道、山陰、山陽の兵を募って、八年後の癸丑九年、八百艘の軍船で浪華の津に上陸したが、大将五瀬王が討死。己未十五年、日向軍の佐怒王が自ら将軍となって耶馬台国を攻めた。この時、長髄彦は深傷を負って退き、安日彦の援軍もまた敗れ、翌庚申十六年、ついに一族を挙げて東国に退去した。
 翌辛酉十七年佐怒王は耶馬台国を攻略して立君し、神武天皇として大和王朝を興し、日本紀元を称したとされているが、耶馬台国への征戦は、この後なお二十八年に及び、佐怒王の立君はなかったと、東日流の資料は伝えている。

東日流王国の成立

 このころ、中国、晋の群公子一族の間に内乱があり、その遺臣、遺族が大船十七艘(八艘とも)で東日流西浜に漂着し、永住したという。
 東日流の稲作は、実に群公子一族が持ち来たった「ほこね」「いがとう」の二品種の稲種によって、この時から始められたと伝えられている。
 一方、耶馬台国では佐怒王の東侵に敗れた安日彦王と長髄彦王が会津で再会し、耶馬台一族とともに丑寅の地、東日流に落着して、群公子一族の遺姫秀蘭とその妹芳蘭と婚じ、群公子一族と併合した。さらに先住民である阿蘇辺族、津保化族をも併合、その四族を合わせて荒覇吐(あらはばき)族と総称し、東日流大里のカムイ丘(亀ケ岡)、三輪郷(弘前市三和砂沢遺跡)、稲架(いなか)郷(田舎館村垂柳遺跡)、栗石郷(黒石)などに拓田し、稲作を興して国が成ったと伝えている。
 初代国王即位の式は、古来、津保化族の聖地であった石塔(いしのとう)山の塔前陽仰門で挙行され、荒覇吐王一世として安日彦王を中央正王に、長髄彦王を副王とし、北王に比利加志エカシ、南王に日奈礼彦、西王に蘇我宇奴、東王に宇鹿摩を配し、荒覇吐五王とした。
 この時統一した国は百七十国であり、その組織は、部の民の村落に二十カ村を束ねる長老をエカシとし、四十カ村を束ねる者をオテナとし、その上に郡主、郡主五人を束ねる者を県(あがた)主とし、その総政を司る者が分倉(わけぐら)王、すなわち四王の一人である。そして、この四王を総括するのが中央高倉(たかぐら)王である。この制度は耶摩堆国の制度を継承したものだという。
 さらに、信仰においては、耶馬台一族の白山神、三輪山大神に自然信仰の地神を併せ、天なるイシカ、地なるホノリ、水なるガコの神(かむい)を荒覇吐(あらはばき)神と総称して石塔山に祀り、統合の国称も日乃本国と称したと伝えられており、これが東日流王国のはじまりであるとされている。
 時に支那(東周)恵王甲午二十五年(襄王庚午元年説もある)と伝えられる。
 この後、耶馬台族が持ち来たった稲種もあったが、晋の群公子一族の稲種の方が地に適しており収穫が良かったので、水田が振興され、東日流の国も大いに富んだという。
 東周王朝考王の癸卯三年には東日流王国ではカムイ丘に神殿を建て六万人の荒覇吐族が参集して大祭を催し、さらに中山石塔山においても大石塔を築塔して大祭が挙行されたと伝えられている。しかし、岩木山八甲田山の爆発によって東日流大里は降灰の被害や水害やらで荒覇吐王五世の荷薩丁(にさつてい)王の時、荒覇吐王政所を荷薩丁に移して、さらに四王を羽州高清水、渡島夷王山、陸州閉伊、磐州田村に移し、東日流の地を荒覇吐神聖地として祭事所としたという。

 

耶馬台国の奪還

 このようにして荒覇吐王宮も東日流から秋田の鹿角(かづの)、岩手の閉伊(へい)、久流間(くるま)などに移り、次第に日高見川(北上川)に沿って、南へと遷宮して行くこととなるのである。
 そして、新地の開拓とともに、秋田の熟(にぎ)族、岩手の麁(あら)族を併合、さらに治領を拡げ、五十九代讃日彦王の時には、王自ら支那に赴き、馬を得て支那馬術チャバンドウを習練し、ここに日之本国に初めて騎馬軍が起こったという。
 また、支那周王朝安王と交わり、安東将軍を称したとされている。なお讃日彦王の時、秋田で地より湧く油を見つけ(石油?)、これを軍用に使用したともいう。
 この後、六十一代済糠彦王が立君し、荒覇吐族騎馬軍は五万騎に達し、祖国耶馬台国奪回の軍策を常に企て、倭の那古(現在の名古屋市付近)まで至った。そして六十二代武波日彦王(大根彦、日之本国荒覇吐王十一世)の時、荒覇吐族の念願であった故地耶馬台国すなわち倭国を攻めて、これを奪回し、武波日彦王の子の根子彦を日之本根子彦国奉天皇として耶馬台国王に立君せしめたのは、秦始皇帝丙辰元年(紀元前二二一)のことである。
 この根子彦王は記紀にいう八代孝元天皇のことだとされている。
 ところが、荒覇吐族の奥州の長老達は根子彦王の立君をよしとせず、荒覇吐五王の南王としては認めると長老会議で決議、坂東に興日彦王を立君し、これを日之本荒覇吐王国の正王とした。
 このため、耶馬台国にある武波日彦は荒覇吐族を脱し、自ら日本天皇として出雲、南海道、筑紫、山陽、山陰の統一の国主として王国を形成した。かくして日本国に両王朝が対立することになり、那古で両軍が対陣し、大いに戦うことになったのは、秦始皇帝の甲戌二十年のことだと伝えられる。
 この後、倭国には一統の王朝がなく、八十七の小国主が分立して天皇空位の時代が続いたが、前漢朝の中元壬辰元年(紀元前一四九)に荒覇吐系の孝元天皇の子、稚根子彦王が立君し、三輪山に即位して開化天皇と称し、倭国は再び統一された。
 開化天皇の立君によって、畿内を中心に出雲、筑紫、内海、南海道、那古、木国、越、濃などの国を併せ、濃州の押領堺を基点に、荒覇吐族から完全に分離して、坂東阿毎川(安倍川)より越州糸魚川に至る境界で東西に分国(いみじくもこの線にはフォッサマグナが走っている)し、西を倭国、東を日高見国と呼び、日本国の中に二つの王国が併立することになり、倭国の大和王朝側から東の日高見王国の人々、すなわち荒覇吐族の人々は蝦夷(えみし)と呼ばれるようになった。

伝承を証明する遺跡発掘調査

 これまで書き綴ってきた事柄は、すべて東日流の諸資料、すなわち『東日流外三郡誌』をはじめとする『内三郡誌』『六郡誌』『六郡誌大要』『古事録』『陸奥風土記』『奥州風土記』『陸羽古史抄』『石塔山荒覇吐神社秘伝』などによるものであり、その成立は寛政年間~文政年間(一七八九~一八三〇)である。
 すべてが史実というわけではなく、伝説や伝承もおびただしく混在している。また、現存資料は明治年代に写し取られた再写本であるので、最終成立は明治四十三年であるともいいうる。その後の調査で最終写本は大正六年であることがわかった。したがって、これを史実とするには一つ一つ学術的に証明する必要があろう。
 しかし、近年発掘調査が進むにつれて、全国的にそれが証明されつつある。
 青森県内においては、昭和五十六年に垂柳遺跡、昭和六十二年には砂沢遺跡から水田跡とみられる約二千二百年前の稲作遺跡が発掘されて、日本農耕史を書き換えることになった。
 また、昭和五十九年、東津軽郡平舘村今津遺跡からは、約二千五百年前に当たる縄文晩期の大洞C 式土器とともに鬲(れき)状三足土器が出土している。これは紀元前三千年前の中国の仰紹(ヤンシャオ)遺跡で発掘された、米の煮炊きや甑(こしき)を上にのせて蒸すのに使用した土器と同じ形であり、米の栽培なくしては考えられない遺物である。
 さらに驚くべきに、昭和五十九年に島根県簸川(ひかわ)郡斐川町荒神谷遺跡から三百五十八本の銅剣、その翌年には六個の銅鐸十六本の銅矛が発掘されたが、それらにそっくりの銅製品が、皮斬(かわきり)という青竜様の青銅器とともに、開化天皇の命によって荒神谷に埋蔵されたと記述されているのである。
 東日流の諸資料が今後の遺跡発掘調査によって、ますます学問的に証明されることを祈って拙論を閉じる。
(『歴史読本』臨時増刊「特集異端の神々と謎の古代文字」より再録)

 

縄文時代 鬼界カルデラの爆発、初代久佐男彦とは、安日彦の5機7道

エロヒムによって造られた、のうが高原の人々、津軽に来たあそべ族、つぼけ族、加賀犀川上流に来たヤマトの人々など日本列島にはたくさんの人がいたと思われます。

貨幣のない良い時代、世界各地で交流あり、常世岐姫、天照大神様の時代でした。

26万人いた縄文の人口が、8万人まで激減します。

その2 縄文時代、26万人でピークに | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

鬼界カルデラの大爆発がBC4300に起きました。

7300年前から始まる鬼界カルデラが最大の噴火を6300年前に起こした後は、九州から中国地方、四国までを無人にするほどの巨大な火山灰が500年間に渡って降り注ぎ、西日本で発達した海洋民の縄文文化はこの時期に一旦壊滅しています。

http://web.joumon.jp.net/blog/2011/05/1249.html

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初代久佐男彦とは

万葉集で出てくる男性を示す言葉

http://reverse-mannyou.blogspot.com/2012/02/1.html

久佐男(をくさを:乎久佐という土地の男),乎久佐受家男(をくさすけを:乎久佐という土地の若い男)

久佐さんの由来、語源、分布

金城町久佐発祥。平安時代から記録のある地名。

島根県浜田市金城町久佐

【彦】の意味は?名付けのポイントを徹底解説! | 一期一名(いちごいちな)

古くは「彦」は「」と書かれていたので、「文」「厂」「彡」の3つに漢字を分解して由来を紐解いていきましょう。
「文」は「入れ墨を書き加える」様子を文字にした漢字で、「彡」は「彩」の字にも使われているように「美しい様子」を、「厂」は「おでこを横から見た形」を表しています。この3つを組み合わせて「彦」は「おでこに美しい模様を描いている様子」を表現し、古代の成人の儀式を示しているのではないか、と考えられています。女性の成人儀式を「」といい、それと対になっていることから「彦=男性」という意味合いが強くなったようです。
その後、男性の地域の統率者を「彦」と呼ぶようになり、古代日本の邪馬台国では女性の統率者である「姫」と合わせて「ヒメヒコ制」という制度が設けられました。こうして「彦」には「身分の高い男性」の意味が加わり、古代の天皇家の名前に使われるようにもなりました。この歴史的背景から「彦(あるいは比古)」「姫」が「尊い存在」と扱われるようになり、現在では地名や神社の名前などに見られるまでになったのです。

 

安日彦の5機7道

日の下(もと)の国を大きく分けると

カラフト(流鬼国)、北海道(日高国)、奥州(日高見国)、関東(坂東)、北陸(越国)、山陰・山陽(出雲)、信州(信濃:しな)、近畿、四国(南海道)、九州(筑紫国)、沖縄(高砂)陸奥(むつ:東日流"つがる")12国8州だった。

この12国8州はさらに分かれ、国主150人が在位していた。

https://ameblo.jp/motoharu567/entry-12230912505.html

古代日本の地名

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この地図分かりやすいので採用しました。

和田家文書と天皇記

私達は、初代天皇神武天皇から始まり今125代と教わります。

和田家文書を見ると違うことが分かります。以下のHPをみると

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou28/kaihou28.html

藤原氏の差配する天皇制は三転していたことが書かれています。

天皇制は図1. のように三転していたのである。

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私達が教わっている歴史は、三転した歴史であった。つまり創作されたのです。

以下のHPより

「和田家文書」に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史の考察   4

藤崎町 藤本光

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou71/kai07102.html

(1) 丑寅日本紀」第八“倭国天皇記国記之事”
 「倭国天皇記及び国記の編纂を大臣蘇我氏にて推古天皇の二十八年に上宮太子、嶋大臣謀りて録す。書記人に語部とて巨勢氏、平群氏、紀氏、葛城氏、蘇我氏、鴨氏、春日氏,を要言とし、伊奈氏,伊理氏,差保氏,保武氏、阿毎氏、箸香氏、二地氏、ら補言に編集せしに天皇記、成れり。
 然るに、国記に於てをや。倭国境を東海の安倍川より西海の糸魚川に地帯せるを境とし、丑寅方を日本国とて荒覇吐王を以て為せる国とせり。依て、その証を唐書に基かしめたり。是ぞ、倭国の国記成れるも、越、坂東、を押領に筆加ふる要言派、これを否せる補言派とに論を激し、茲に大伴氏、物部氏、竹内氏、橘氏、藤氏、を審とて補言派の論勝に決せり。時に、丑寅日本国にては、荒覇吐王居、武蔵大宮に在りて、此の域を安東と称し宗帝よりの賜号とせり。坂東に位せる安東将軍は五代に相継ぎて、讃美彦、珍美糟彦、斉糟彦、興美彦、武波日彦、と曰ふ。
 天皇記、国記、は蘇我氏の菅主たりしも、是を皇宮蔵管とせし中大兄皇子、船史恵尺(ふねのふひとえさか)ら、甘橿の蘇我蝦夷を攻め、火箭にて[/]り、不意なる攻めに、天皇記、国記、を石川麻呂にたくし、蝦夷は自刃せり。その後になる壬申の乱にて、左大臣蘇我赤兄、亡びたるも、天皇記、国記、は石川麻呂に依りて、遠けき坂東の武蔵国和銅釜萢邑なる荒脛巾神社に秘蔵し、倭朝の手に入らざりき故に、此の乱にて流刑となりき。
[
/]は、ウ冠に火。JIS第4水準ユニコード707E

蘇我氏滅亡以来、天皇記及び国記の行方知らざるに、大化乙巳の乱に焼失せりと、以来風聞にも、その所在、天慶の乱平将門が鎮護の眼にも留らず、亦、将門を討に藤原秀郷、この大事たるも知らずして、将門の遺姫が居住せし飽田生保内に住むる楓姫に届けらる。後世に此の書入箱、平泉なる白山神に奉納さるも、開箱されぬままにして、十三左衛門尉藤原秀栄に給はれしを、開箱なきままにして石塔山荒覇吐神社に奉寄されたるものなり。
    慶長丁酉八月廾一日
     飯積之住人 和田左馬之介」

 亦、次の様な文書もあります。

(2) 丑寅日本記」第七“陵墓改葬之事”
 「(前略)蘇我氏の陵墓を掘り荒したるは、中大兄皇子にて、八十日を土民を徴してあばきたり。即ち、天皇記の焼けざるを船史恵尺(ふねのふひとえさか)の報に依れる捜掘なり。終にして天皇記、国記、ら文書なきが故に、蘇我蝦夷、自刃にして住居をるときにぞ焼失しけると思いきや、事の兆を察せる蝦夷、加之書を高賀茂の公麿に秘蔵を頼みけるに、是を豊田郷の荒覇吐社に秘蔵せしを、世々に降りて平将門、此の社を神皇社とて祀りき。天慶の乱に討死し、藤原秀郷の菅領と相成りき。依て、此の社を取潰にせしとき、はからずもこの書管の入りたるを知らず、将門の遺品とて秋田生保内に住むる将門息女楓姫に届けたり。楓もまた是を見届けず、そのままにして東日流石塔山に奉寄せるものなり。天皇記は是くして奉寄されたるものなり。
     寛政五年八月一日
          和田長三郎吉次」

 更に大化改新以前の状況を伝える文書もあります。

(3) 丑寅日本史総解」“議嶋大臣蘇我馬子天皇記国記”
 「推古天皇二十八年より三十六年に至りて、天皇記及び国記を編纂、天皇記全六巻、国記六巻を筆了せるも、天皇崩じ、是を馬子奉持してより倭国一統の葛城王五畿七道を権握す。依て、三輪蘇我郷にありし馬子と併せし王朝を奉ぜしは、日向王磐井彦、春日王和珥氏、筑紫王奴氏、国東王大元氏、日本国王阿毎氏、日高見王多利思彦、坂東王阿輩鷄*彌氏、越王白山神王家六衆及び九龍氏、九首龍氏、三輪氏、犀川氏、出雲氏、河内王別和珥氏、那古王竹内氏にて、是れに抗したるは陸羽日本国の蒙氏、巨勢氏、平群氏、紀国の熊野氏、尾崎氏、朝熊氏、なり。
*は、「鳥」のかわりに「隹」。JIS第三水準、ユニコード96DE
 即ち、葛城氏、蘇我氏、に依る併合に警鐘を打ちければ、遂にして大化乙巳の乱起り、中大兄皇子、甘橿丘に蘇我氏を討伐し、天皇記、国記、を奪取せんとせしも、その将士船史恵尺、是を探得られず、焼失と断定す。
 右は大宝辛丑年小角伝より。
     元禄十年八月三日
              伊予記」

 『天皇記』及び『国記』が津軽に存在する様になった経過について、今一つの記述があります。

(1) 丑寅日本記」第七“天皇記、国記、之抄”
 「(天皇)倭国第一世之天皇以宗国(支那国之事)武帝之永初二年二月十日為倭国応神天皇還難波之津都宮云々。
 (国記)夫倭之国異丑寅之日本国其領界坂東之阿毎川東海水戸越之糸魚川西海水戸横断東北堺西南堺相裂堺在是可云々。
 即ち、天皇記とは、蘇我氏に公蔵されし、天皇秘書なり。国記また然りなり。然るに、由ありて、平将門の手に入りて、豊田神皇社にありきを藤原秀郷、秋田生保内に忍住せし将門の遺姫に届けしものと曰ふ。大巻の書なり。
    文正丙戌年二月七日
             竹内宗達

 追而 天皇記は東日流の石塔山に平楓姫奉寄せりと曰ふ。余、是を写したるものなり。
 右、追而如件。       宗達

 次に『天皇記』及び『国記』は後の天皇氏の皇統史にとって障りある文書であるとする文章を二つ紹介しましょう。

(5) 丑寅日本記」第十“天皇記行抄 二”
 「凡そ、倭国天皇の創めて即位せしは、古事記日本書紀、に記行せるより史実相違せるは明白なり。天皇とは支那天皇氏を風聞にして号したるは、百済聖明王が仏法を伝へしより添書に日本天皇とて当たるに創りぬ。
 その以前にして号せるは倭王氏、明日香氏、蘇我氏、葛城氏、春日氏、奴氏、日向王氏、とぞ世襲に抜きたるを、倭国王と即位に選抜さるは、諸権の力量にて任解されたり。依て、天皇記にては、神代ぞ非らず。亦、神武天皇一世ぞあるべきもなかりけるなり。
 天皇記を記しけるは、耶靡堆阿毎氏の崩滅より、伊理足志氏、多利思氏、阿輩氏、和珥氏、春日氏、磯城氏、蘇我氏、明日香氏、大神氏、生奈氏、日向氏、越王氏、出雲氏、奈古氏、等の出自に倭国王は成りて、万世一系にあらざるなり。
 諸氏権謀術数にして、空位無王の年を長じ、支那三韓より偉を帰化せしめて成れる王ありき、依て、是、天皇記及び国記の巻ぞ、蘇我氏代々の掌中に秘蔵さるに、天皇氏、勢を為して、国史帝事記を固定せるに当り、是の如き天皇記、国記、の既存せるを障害として、蘇我氏に是を呈上せるを再々度に請令せど、時の蘇我蝦夷、応ぜず、中大兄王、船史恵尺に令し、蘇我氏討伐の軍を差向けたりしも、蝦夷、自刃して目当なる天皇記、国記、の虚在奪取ならず、甘橿宮を[/]りて、蝦夷、既築の陵をことごとく土除きて石室去棺を壊砕して探せど見付くるなし。是至るは、既にして蝦夷、心得て、坂東の和銅山に移封して、密々に人の知る能はざるなり。
[
/]は、ウ冠に火。JIS第4水準ユニコード707E

 風聞、天皇氏に達して、東国丑寅に密使を以て探求し亦、征夷として要虚を略す、然るに得る事、能はざれば、諸々転々、安倍氏に在りとて倭朝挙げて丑寅を攻め抜き、前九年の役をして抜けども当らざるは天皇記、国記、の行方にて、源氏は是の密令を代々に奉じ、平泉の役をして藤原氏を落せども当らざりき。(原漢書天皇記)
    正平六年十月二日
         三河住人 橘秀継」

以上を見ると分かります。

天皇記を記しけるは、耶靡堆阿毎氏の崩滅より、伊理足志氏、多利思氏、阿輩氏、和珥氏、春日氏、磯城氏、蘇我氏、明日香氏、大神氏、生奈氏、日向氏、越王氏、出雲氏、奈古氏、等の出自に倭国王は成りて、万世一系にあらざるなり。

とあります。

記紀を正史としている為、天皇万世一系といわざる負えないのです。

以下のHPより、

https://ameblo.jp/hideakirael/entry-12428820220.html

マイトレーヤラエルは天皇家とは親戚にあたるそうです。

また、天照大神ヤーウェの娘であり、ラエルとは異母兄弟になります。

アマテラスは、アジア系生命創造グループのリーダーです。

 

縄文文明、邪馬台国、BC5000年まで

邪馬台国について

支那旧唐書(くとうじょ)という歴史書に、そのことがはっきりと書かれているのです。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名」というのがそれで、意訳すると「日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」と書かれているのです。
つまり、九州王朝と畿内王朝は、「どちらもあった」わけです。

この「旧唐書」というのは、完成したのが945年で、魏志倭人伝よりも600年ほどあとの時代のものです。
記載された内容は、唐の成立(618年)から滅亡(907年)までの約300年間の出来事で、その中に「倭国伝」と「日本国伝」があります。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1909651242401934&id=1598458680187860

 

  三森輿志郎 邪馬臺国の位置は、二元論で一ヶ所に限定する事に大きな間違いが。
更に読み方に決定的な間違いが大きい。
『臺』は、3世紀の古代中国には『To』と発音していた。
これを無知でバカな歴史学者が無理やり、『Tai』と読ませ、『卑弥呼』の後継者『臺與』を『Toyo』と読ませている。
3世紀の『臺』の発音は『Tai』なのだ。
従って『邪馬臺』は『YAMATO』と発音するのが、正しいと言える。
『大和』は、ヘブル語『Yamaut』が語源で『神の民』である。

 

『臺』は、3世紀の中国語の発音『To』で読むべきで、20世紀の日本語の『Tai』の発音で読むべきではありません。
なぜなら、当時の倭人の発音を、中国人が漢字で当てはめたからで、二十世紀の『臺』の発音を当てはめる事に、大きな間違いが有るのです。
中国語の『言語の発音の歴史』の立場から、論ずるべきで、日本の歴史学者の脳ミソは、幼稚であり、バカで話しにな りません。

 

ことらの日記の解説

kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2014_01/2014_1_30.html

2014/01/30 - ここで学ぶ皆さんには既に常識に成っている、中国製の日本書紀の内容です。
古事記が最古の書ですが、日本書紀は、その後に中国の偽造文献の内容を取り入れました。捏造は中国の国技です。
それが魏志倭人伝に有るという、邪馬台国卑弥呼のことなどです。
既に述べたように魏志倭人伝偽書です。そして日本書紀邪馬台国も虚偽記載です。こんなものが正史とはとんでもないことです。
邪馬台国とは、出雲朝、倭国(ヤマト国)です。卑弥呼は出雲朝から神倭朝の神功天皇践祚したのです。
邪馬台国古事記には掲載されていないのです。無かったので、当然です。

kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2013_01/2013_n12_11.html

2013/12/11 - ヤハヴェの神、田中大神は出雲朝では、12代 美呂浪(ミロナミ)と呼ばれました。
ご本人によると、これが本当の名前です。日本神話では事代主、倭健などとも呼ばれます。

謎に包まれていた邪馬台国は出雲朝の神蹟だったのです。そして、祐徳稲荷の奥社も邪馬台国だったのです。 出雲朝(邪馬台国遷都回数は23ほどになるそうです。 邪馬台国の「やま」は「八間」と書くとイエメンの胎蔵界、マリブなどです。もちろん山も当たりです。
これが山窩文字の、三五の桐、です。
日本の誇る、偉大な朝廷の文字です。数えたら35番目でした。

 ・・文字通り、日本の開運だそうです。
稗田阿礼尊に感謝です。倭に山戸を当てるのも正解です。倭は円墳、竪穴式住居もそうです。

 朝廷が関西に言ってから大和が当てられたのです。
その倭はこれです。。川の字に見えます。

 川とは「かわ」で、先祖(か)は倭人という事です。
川島町は「かわじままち」です。「わじま」は継体天皇だそうです。継体天皇の子孫、皇族です。

 確かに、あれだけ古墳、皇居などの跡が在ると、そうも言えるかと思います。
継体天皇の神璽です。インドのスチューパです。丸墓山の姿です。丸墓山頂上の石は、バカ役人が撤去してしまったのです。

以下BCです。

13000年前、青森県津軽半島大平山元遺跡(おおだいやまもといせき)縄文文明、以外にプマプンク遺跡(H型遺跡、ティワナク遺跡から1km)は、巨人族が作った、ラッパの音で空中に浮き運ばれた(アイマラ族の伝承)

10000年前、エジプトのピラミッド、スフィンクスが造られた(オリオンの3星、朝廷マーク五七の桐はこれを表す)エジプト文明

六甲山巨石文明、カタカムナ文明

トルコギョベックリテペ遺跡(オリオンから降臨の民が建造)

ナンマドル海底遺跡ニュージーランド北方ポナペ)

7500年前、鹿児島県霧島市上野原遺跡

7000年前、北海道函館市茅部町垣ノ島遺跡(赤漆と黒漆の文様土器)

6400年前、メルブ遺跡、マルギアナ文明、トルクメニスタン(ことらの日記でゆう日本開闢)ジャルモ期

石川県犀川上流にヤマト(倭)国建国

5500年前、シュメール文明、ウバイド文化エリドゥ

長江文明

 

まだ、他にもあるでしょう!

 

縄文文明、あそべ族、神農、初代耶馬台国王久佐男彦

世界7大文明が最初にありました!エロヒムが創造した人達です。

縄文文明は日本の最初の文明ですが、広島ののうが高原にエロヒムの創造した人がいました。

遺跡から一番古いのが青森県津軽半島大平山元遺跡(おおだいやまもといせき)です。

東日流外三郡誌には、蒙古より阿蘇部族日本国北方に移住。1000年後、津保化族が来たとあります。

伏羲、女媧、神農の世

初代耶馬台国王久佐男彦三輪山に立君、加賀の犀川の上流

支那神農の世)津保化族東日流ツボケ山渓に石塔(オテナの塔)を建立

支那黄帝の頃)支那、エジプトで文字流通。日本では石置の印が流通

支那五帝の世:少昊しょうこう帝、顓頊せんぎょく帝、嚳こく帝)

 出雲と南海道(四国か)に国ができた。

支那帝舜王) 築紫に国ができる。

支那夏の世:都は安邑)

 印度で日種、月種の両王族興る。

 アリアン族アーリア人か)、ブンジャプ(インドの地名か)に侵入。

支那潰帝:夏の八代皇帝槐帝のことか)

 蒙古族モンゴロイド南米に大帝国創立

支那殷の世:紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年) 

 エスライル人始めて偶像を拝す。

 日本では土石像で天地人の神を造拝す。

 ダビデジェルサレムに都す。

(周帝幽王〈前781- 771年〉六年)

 オリンピア祭始まる。

(東周平王〈前770- 720年〉六年)

 東日流に夷三郎(えびすさぶろう)流着し漁撈を行う。

(東周平王四十七年:前723年)孔子「春秋」を作る。(孔子の生没年月日は

 紀元前552109日‐紀元前47939日とされるので時代が合わない)

(東周桓王〈前719- 697年〉

 壬戌元年)高砂族大挙して築紫に上陸、猿田族を誘惑し、

 民を併せて稲作を耕す。

(東周桓王庚午九年:前710年)高砂族の長豊玉彦、日向に都し、

 一族玉依媛四人の男子(神武帝の兄弟か)を生めり。

 

https://blogs.yahoo.co.jp/rich036kit/14323500.html

東日流外三郡誌の「神武東征譚」】

(東周荘王〈前696- 682年)丙戌二年:前695年)

 耶馬台国二百七十代安日彦王位に就く。五畿七道を治める。

(東周荘王己亥十五年:前681年)

 安日彦王、弟登美長髄彦を副王とし築紫平征を企てる。

(東周釐王りおう〈前681- 677年)辛丑二年:前680年)

 日向一族高千穂宮に日子五瀬王兄弟耶馬台国東征を企て、

 豊国宇佐に宮を移す。耶馬台国軍豊国を攻撃し宇佐宮を焼落し、

 日向軍敗れる。翌壬寅三年(前679年)築紫岡田に敗退す。

 勢いを蓄えて、

 癸卯四年(前678年)耶馬台軍を破り赤間水道を安芸国まで進行するが、

 耶馬台軍に囲まれて7年間停滞する。

(東周恵王〈前676- 652年)己酉五年:前672年)

 築紫から日子五瀬王軍が大挙して駆けつけ耶馬台軍の包囲を破り、

 吉備の高島まで進軍し陣取る。

 ここで和議が成立し耶馬台国副王長髄彦饒速日命が降り、

 長髄彦の媛と結婚する。しかし、このことを怒った稚三毛渟麻命は、

 壬子八年(前669年)東征の準備を始めると、

 耶馬台国王の安日彦は大いに怒って長髄彦を責めた。

 長髄彦饒速日命を吉備に追放して高島宮を囲んだ。

 五年後の丁巳十三年(前664年)、出雲族南海道の耶馬台五畿軍が

 叛いて日向軍に加勢。

 戊午年(前663年)饒速日命、日子五瀬命と共に

 高坐山(不明)を攻撃するが耶馬台軍勢が強く、

 日子五瀬命は矢に当たって討ち死にした。

 稚三毛渟麻命は兄三人が討ち死にしたことを怒り、

 饒速日命を責めると饒速日命は義父の長髄彦を攻撃し深手を負わせた。

 饒速日に追われた長髄彦は一命をとりとめて、

 一族を引き連れて日高見国へ退散した。

 劣勢となった耶馬台国王安日彦も多くの兵及び領民を率いて、

 日高見国へ退いた。その数は総勢十余万人にも上ったという。

 

BC13000年にあそべ族が津軽に来て遺跡を残したのでしょう。

初代耶馬台国王久佐男彦三輪山に立君は、いつ頃か。

神農はいつ頃か、ことらの日記を検索すると、2

008/02/29 - 神農は、身体が脳と内臓以外透けていて、透明人間のようだったそうである。 毒をなめると、内臓の、毒のあたった部分が黒くなり、それで毒を感知したそうである。

モーゼや神農、役の行者は上のものであった。

こちらは神農と言われる漢方の神様である。 神農) そして、こちらはミケランジェロ作のモーゼである。皆角がある。 モーゼh= 社主が、角があるのは神様だと言っている。

今のイエメン、サナーズ(サマー=夏、炎天下)の出身だそうである。
エジプトにもよく行ったそうである。炎帝神農氏と称されるそうである。

沢山の農具を発明し、交易の道を教えたそうである。
医薬の神、鍛冶の神、商業の神、易の神として、多方面から崇められるそうである。

神農はエジプトで多くのことを学んだそうである。
アトランテイスの人の子孫が沢山いたのだそうである。イエメンに住んだ、アトランテイス人の子孫なのだそうである。

私も、あの、頭皮頭蓋骨を透て見えた脳はなんだったのか、やっと解った。
当時は、まさにピュアな人が多かったのである。

神農様は最後はやはり毒の鑑定中に、毒にあたって死んだそうである。
その時はエジプト、アルカヒラに居たそうである。248歳だったそうである。

当時のアトランテイス人の子孫としては短命であったそうである。
時代はピラミッドを造っていた時だそうである。もちろん神農様も参加されたそうである。

勿論、文字などと言う、悪魔の道具に成るものは無かった時代である。
神農様は木星の第7レベルにお住まいだそうである。仏教で言う如来の世界である。

エジプトのピラミッドは木星に石抜けするための通路でもあったのである。
神農様は遠路はるばるご苦労様でした。

神農様はフリーメーソンのランク11位(13段階)だそうである。
高位のメーソンは、岩舟を使わずとも、直接石抜けで地球に来られるのだそうである。

年代がはっきりしません!

アトランテイスの頃は、ミノア噴火(クレタ島サントリーニ島、アトランテイス沈没)BC1628年です。

この後とゆうことです。新しいです。

神農はピラミッドを造っていた時とゆうと、ピラミッドはBC10000年頃に作られてます。神農は2回は存在しています。

 

竹内文書では、上古初代、天神人祖一神宮(皇祖皇太神宮)を、富山に移すとあります。トラスの時代、エジプト第2王朝BC2890年です。

 

年代の単純計算、耶馬台国二百七十代安日彦王位に就く。BC695年。

一人20年とすると、5400年前、BC6395年となる。8400年前となる。

ことらの日記で日本開闢8400年前とあります。同じになってきた!

 

 エジプト、アルカヒラ

アルカヒラ=カイロのアラビア語名。

 

まだ、日本には遺跡がいっぱいあります。分かりやすい年表があれば良いね!

 

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1万2千年前の世界

この地球に山や森は存在しない

とゆう動画があります。

『この地球に山や森は存在しない』 (後編)

https://youtu.be/z7gPiXTXrak

Eden Media

2017/05/07 に公開

グランドキャニオンやエベレストは古代の採掘活動によって生まれていた?!後編では、世界中の山、渓谷、湖、砂漠を巡り、その本当の形成過程を探っていく。過去~現在~未来を繋ぐ、地球史を覆す新説がここに!

 

ことらの日記の解説です。

http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2018_01/nikki2018_6s.html

平成30年6月30日

 

以前に一話掲載した地球人類降臨以前の話です。
地球には巨大な木が茂っていました。

 古事記などで言う独神の時代です。
ケイ素の時代から炭素の時代へと生物生命の質が変わったのです。

 以前にイエメンマリブの上が平らな山を紹介いたしました。
あれも巨木だったのです。

石炭もダイヤ、宝石も、元は木です。
それでダイヤは炭素です。燃えてしまいます。

 地球の空気は酸素含有率が遥かに高かったというのが本当です。
木材と言っても、様々なものがあり、黒檀や紫檀は鉄木とも言います。

 それで様々な宝石が出来たのです。
木が伐られたのはピラミッド建造以前です。

 エジプトには巨木はなかったそうです。
・・木を切ったのが月にいる悪霊です。これらを人工天体と言われる月の材料にしました。
。。。

 

『この地球に山や森は存在しない』 (最終章 // 創造論

https://www.youtube.com/watch?v=E766rT0X0jQ

Eden Media

2017/07/01 に公開

「この地球に山や森は存在しない」がドロップされてから約2か月に渡って展開されてきた、この新説の検証。遂に、最終章と位置付けられる本動画では、信憑性の高い科学的な考察を元に、巨大植物の残骸説を裏付ける。

 

実際、2006年に科学誌「サイエンス」が世界38か国を対象に行った調査では、日本人はダーウィニズムに疑いを持たない国民のトップ5か国に入っている。それほどにダーウィニズムは日本では「高く評価」されている。盲信されているのである。 しかしほかの国々では、ダーウィニズムを疑う人のほうが多い。とくにアメリカなどでは米国人の54%は「進化論を信じない」と回答しているほどだ。..... 日本とは何と違うことだろう。アメリカだけでなく、ヨーロッパ各国でもダーウィニズムを疑う人が多い。しかし日本では、「ダーウィニズムは事実」「進化論は事実」と教えられるまま、いまだに能天気に信じこんでいる。 引用元 「天地創造の謎とサムシンググレート」 久保有政 著(学研)

 

【大洪水前の地球③】生物が巨大だった科学的根拠

http://magicalhistorytour.net/giants/

1万2千年前の世界

大洪水前の地球は、現在よりも気圧が高かったという科学的証拠が見つかっています。

それは上空に水蒸気層があった為で、それによって大気が押し下げられていたという説です。

さらに、その水蒸気層は紫外線を通しませんでした。

そして、、酸素濃度は現在の21%でなく、25%(当時の琥珀内の濃度は32%)でした。

現在と違うそのような環境、それこそが植物や動物を巨大たらしめた理由だというのです

恐竜が生きられる環境

当時の化石達はみな大きい。

現在10mホオジロザメ18m、最大40cmのシダ植物は45m、10cm程度のトンボは90cm

巨大生物の最たるは恐竜でしょう。

恐竜達の鼻はとても小さく(24mアパトサウルスでも現代の馬と同じ程度)、現在の環境では体中に酸素を行き渡らせることはできません。

そんな小さな鼻の孔でも充分生きられたのは、上記のような環境だったからと考えれば、納得するのにそう難しいことではないと思います。

大洪水前の人類は巨人!?

この動画『この地球に山や森は存在しない(創造論)』で講義をしているDr.Carl Baughは、巨人伝説についても触れています。

大洪水前の人類も当然巨大であった ー

しかも、脳は大きく、且つ酸素が行き渡ってるので、脳の力を最大に発揮できる ー

さらに、その環境は現在の12倍寿命が長いと思われる ー (80x12=960)

むむっ、現代人は脳を完全に使い切れていないですし、松果体のように退化して機能不全になっている器官もあります。

 

その完全な脳によるテクノロジー及び巨大な身体によって作られたのが、ギザの大ピラミッドなどの説明不可能な遺物なのではないか。

そしてその完全な脳が感知する幸福感が平和な心を生み、争いのない時代を作ったのではないか。。

神武天皇はじめ神話上の人物たちが長寿だったのも実は誇張ではないのではないか。。。

実証実験をした森敬教授

実際に大洪水前の環境を作って実証した科学者として、日本人の森敬教授が紹介されています。 そのような環境下で育てた一本のミニトマト12メートルになり、普通のトマト大の実が1万5千個も実ったといいます。

光ケーブルを屋根から地下室に引き、ミニトマトを栽培、酸素濃度25%、気圧2.18atm3週間で巨大になり、屋上に紫外線をカットした天井を作成して2年後、ミニトマト12メートルになり、普通のトマト大の実が1万5千個も実った。

 

この地球に山や森は存在しない(日本語吹替え)【投稿都市伝説ランキング:11位/30

https://www.youtube.com/watch?v=2qfF1KMY1-c

2017/12/28 に公開

20181123051811

20181123051756

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