神倭朝 34~44 ひえだのあら、太安万侶
629、34 舒明(じょめい)天皇 歴史の捏造始まる。↓
諸悪の根源は遣唐使
舒明天皇は、イタリアの踵(かかと)の部分から来た方です。
舒明(じょめい)とはジョエルなのだそうです。
父とされる押坂彦人大兄皇子とは、出雲朝十代 雍主日子(ミカヌシ)、ミカエルなどといわれる方です。
舒明天皇の曾孫に当たるそうです。居宅は八王子市上川口の熊野神社
天皇が創った和歌なども存在しません。和歌(倭歌)は奴婢のものだからです。
和歌は五七=三五、中国人の漢詩に対する「かえしうた」です。
既に述べたように漢字がない時代のものです。万葉集に多く使われていた神代文字は、こちらだそうです。
伊予文字などとも言われますが、東国でも多く使っていたそうです。防人の歌もこれで書かれていたそうです。
舒明天皇に縁が深い吉見文字などは、出雲朝でも使っていた文字です。
舒明天皇の皇居は、ここに在ったそうです。ここは出雲朝、神倭朝の聖地です。明秋
漢字が書かれた木簡が、歴史の捏造の始まった時期です。
古い木簡は640年頃のものとされています。
橿原神宮などをでっち上げたのは中国人宣化です。(安閑天皇、歴代天皇様談)
母の糠手媛というのはシチリアの人です。
マヨネーズ屋は昔、中島薫商店でした。フジが見えます。この薫は「とう=唐」
本当の橿原は埼玉県桶川市川田谷の柏原だった
天智天皇の時代は、歴史の捏造はなかったのだそうです。
やはり、問題が発生したのは壬申の乱後だそうです。
稗田阿礼(ひえだのあら)の居宅は、高坂の妙安寺です。
この時の天武天皇の皇居はここだったそうです。
飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみや、埼玉県坂戸市高麗川東の地、坂戸市伊豆の山町
因みに、蘇我氏の館跡は吉見町の町役場だそうです。
この当時は漢字でなく、出雲朝同様、エジプト語の類を使っていたのです。焚書された蘇我の文書もアラビア語だったそうです。
その証拠に、吉見でも神代文字が発見されています。沢山の種類の文字があったのだそうです。
その斑鳩宮の裏に、皇極天皇の皇居があったのだそうです。古代蓮の里
ここから、白山古墳に案内されました。
この白山は「しろやま」なのだそうです。城山です。
ここは出雲朝10代、雍主日子(ミカヌシ)の古墳なのだそうです。
ミカヌシは、軍神マルスともされます。その皇后が白山媛です。比那良志毘賣(ひならしひめ)と書いてあります。
この方は豊受大神と思ってください。白山姫は、そのように解説しているつもりです。シロ、白は出雲です。
五十とは日本語では次のようです。
皇極記も新興宗教だそうです。(皇極、斉明天皇談)
イソはISO、同じ、共通、英語で「セイム」と言う発音の語が近いです。→成務天皇
Isolaとはひとつの空という事です。五十津、いすゞです。
八十とは、同じように書いてあります。
允恭天皇もバチカンの手先で、淳仁天皇の時に追号されたのだそうです。
以上から、ここで言う八十は、耶蘇という方が合っているようです。
漢字表記の山背が山代と成ったのだそうですが、当時の山背は現在の吉見です。ヤマシロ、山州です。
こちらが山背大兄王の陵です。生前から在った祈りの山です。
東松山市古凍(ふるこおり)というところです。確かに山背のようです。
翌年引っ越した飛鳥板葺宮と言うのはこちらです。
以前は上福岡と呼ばれた土地の阿蘇神社というところだそうです。
斉明天皇は九州で亡くなったことにされています。
ここ上福岡、阿蘇は九州だったのです。
[飛鳥時代]
---645 大化---
---650 白雉(はくち)---
飛鳥時代の最初の朝廷は、ここにあったそうです。鳩山町、 鳩山町小学校
ここは孝徳天皇の一代限りです。
鳩山の「ハト」はハトシェプストと言うことです。
建玉天皇の時代にエジプトを離れてきたのです。エジプトは、カラどもが暴れ、悪だったのです。
孝徳天皇は軽皇子と言いました。その根は松です。
休山寺は本尊は甲斐の国から釈迦如来像を持ってきたと成っています。甲斐の国は根はカイロです。
神倭朝35代、37代に重ねて践祚された斉明天皇様のお話です。
古人皇子は吉見の古名の人だったそうです。
飛鳥斑鳩宮は現在の古代蓮の里にあったのだそうです。藤原氏が古代蓮などの証拠隠滅に来たのは歴史上の事実です。
もちろん、行田にも藤原町があります。
斉明天皇陵は川里にあったのだそうです。ここも銅鐸の聖地です。天照皇大御神様を祀っていたそうです。
もちろん、神社もあったそうです。
板蓋宮は羽生の新郷だったそうです。
白村江の戦いさえ、朝鮮人、中国人のでっち上げなのだそうです。
斉明天皇は、九州にすら行ったことがないそうです。
かっては国というものは存在しなかったのです。
中国人捏造の漢字文書には倭国と書いてありますが、これは嘘です。
これが倭(わ)です。東国を現したのです。東国は十国です。
これに国というものが憑いたのが、斉明天皇の時なのだそうです。
出雲朝を滅ぼした中国人の入れ知恵です。
もちろん、税を毟るためです。
これで倭国です。もちろん、当時は漢字ではありませんでした。
奈良時代に入った元正天皇の時から使われたそうです。
古事記を編纂中に秩父で銅が出ました。そのため和銅と改元されました。
東国で銅が出たのは大変なことだったのですが、それ以前は、銅を輸入していたそうです。
当時は、銅を奴婢と交換していたそうです。労働力の男性です。奴婢は同じ人間ではないのです。
その相手国はソマリアだったそうです。
始まったのは神倭朝7代 タムラ族の孝霊天皇の時代だそうです。
防人も東国の男性が行ったのは、この名残です。
防人の説明です。防人は任期は3年だったそうです。公奴婢です。
鑑真の話は、中国製の嘘だそうです。
鑑禎という方の話についても、鑑真の弟子などでは在りません。
出身地はこちらです。チベットのラサ
鞍馬寺の「鞍馬」とは「来ラマ」なのだそうです。光仁天皇の時代にラマ僧が沢山来たのだそうです。
ポタラ宮殿の造営は日本で徳川の時代に始まったのです。
生出塚の聖地では、継体天皇までが居られました。
神倭朝27代 安閑天皇様は朝廷を中丸に引っ越されたそうです。ここは北本市です。地元では本宿などと言います。
中丸の氷川神社、ここには神倭朝38代 天智天皇の時まで朝廷があったのだそうです。
天智天皇陵、中丸緑地公園
日記 白村江の戦い 無かった
日記 帝紀 ?AH73/1/17
多くの方が天智天皇とは、中大兄皇子と思っています。 ご本人は中大兄が良いそうです。
他戸親王(おさべしんのう)と言う方がいました。
この方のことでも天智天皇は、お怒りなのだそうです。犯人はもちろんフジアン藤原氏、中國人一派です。Wiki
フジアン藤原氏、中国人どもは、天武に擦り寄り、騙して利用し、やがて裏切ったのです。中國人の得意技です。
天智天皇、本名は天明開別(あめみことひらかすわけ)天皇と部下の中臣鎌足です。
中臣鎌足には子は居なかったのだそうです。朝廷祭祀を担当した神職なので当然です。
Wikiの引用です。
もちろん多くは虚偽記載です。この大事件は、木簡の古事記にも記載してあったのだそうです。
額田姫をめぐる因縁や、九州王朝説など、全て嘘です。
したがって不破の関などという話も的外れです。
弘文天皇によると戦いは27日間続いたそうです。最大の激戦地はここだったそうです。
府中市立南白糸台小学校
弘文天皇は母が伊賀の采女だったと言われています。
この母は壬申の乱の2年前に殺されてしまったそうです。
その為、天智天皇はこちらに祭ったそうです。
八千矛神、大国主尊を祀る九万八千(くまはっせん)神社です。ここは大友皇子の母の古墳だったのです。
蘇我蝦夷の屋敷は、既に述べたように吉見にあったのです。吉見町役場
蘇我蝦夷の2つの陵(みささぎ)です。
須賀神社が証拠です。
以前述べたように、蘇我は須賀になったのです。
日月(ひふみ)神示とは、一二三神示です。
この神示を下ろされた岡本天明は天智天皇の役人だったのです。
筋道がついてきたと思いますが、その神示は全く理解ができていないそうです。
岡宮天皇陵は川島町出丸本の護国神社です。聖武天皇陵は、桶川の坂田というところです。
聖武天皇から孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇、光仁天皇までが出丸の下大屋敷に居たのです。
それに弓削道鏡まで居たのです。
中臣鎌足の古墳のことです。
三浦三崎のものは改葬されたものなのだそうです。最初は天智天皇陵近く、聖武天皇陵の側だったのだそうです。
最後まで山背大兄皇子を守った三輪文屋という役人は、ここに居たそうです。
この辺りは、沢山の廷臣の官舎がありました。
斑鳩寺というのは吉見町の蓮性寺です。
この「もがり」に繋がる式は神倭朝38代 天智天皇の時から始まりました。
http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2018_01/nikki2018_11s.html
蘇我が現れ、天智天皇は苦労しました。皇居はここでした。18/11/10原市陣屋跡
〒362-0025 埼玉県上尾市上尾下907−2
671、39 弘文天皇 多摩川、是政朝廷 即位した時は、神倭朝31代
すると、近江と言うのは、東国では何処かと言うと、こちらです。
秘密がいっぱいの府中、多摩川周辺です。ここに弘文天皇の朝廷があったのだそうです。それで府中です。
ここで戦争があり、官軍は賊軍に負けてしまったのです。藤原氏が裏切ったのだそうです。
六道というと仏教用語です。
ここでは3番の意味になります。多くの方が、弘文天皇と殉死したからです。
ここに七所神社というのがあります。
出雲朝の神々を祀っています。七所の「しち」とは、死地という事です。弘文天皇と役人の皆さんの死地です。
正倉院より大きそうな倉庫に、沢山の木簡材料(桐の板)を搬入していました。その隣が書院でした。桐材は伊那町あたりから仕入れたそうです。
筆の歴史、形状については諸説ありますが、世界中で使われています。殷でも使われたそうですので3700年前には使っていたようです。日本でも木簡以前は粘土板だったそうです。
御代で言うと神倭朝初代 神武天皇、綏靖天皇の時代だそうです。 そして現在の神倭朝3代 安寧天皇、お釈迦様が、本当のハツクニシラススメラミコトだったのだそうです。
そのため、弘文天皇は即位した時は、神倭朝31代だったのだそうです。
日本の歴史で黒塗してある、宣化や、孝徳天皇などが居るからです。不要な者だったのです。
北本の中丸氷川神社なのだそうです。ここは天智天皇(中大兄皇子)の時までだったそうです。
その後は、天武天皇の時は、ここに引っ越したそうです。普門寺
ここに44代元正天皇の時まで居たのだそうです。
日記 諏訪神社 長屋王 高市皇子 ?AH73/1/17
長屋王に出自をお尋ねしました。インドの歴史の紹介です。
長屋王は、こちらのバルダナ朝の第3皇子だったのです。
日本へは留学に来ていたのだそうです。
古事記編纂開始も失敗。 |
686、41 持統天皇
---686 朱鳥(しゅちょう)---
飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや、川越市立高階(たかしな)北小学校
持統天皇陵はこちらだったそうです。艮を向いた前方後円墳です。坂戸
言わずと知れた日本最古の歴史書です。
これは天智天皇の皇女が即位した、持統天皇の命によって作成されたのだそうです。
帝紀(帝王のひつぎ)、旧辞(神話、伝承の記録、口伝)のおさらいです。
メソポタミアの王名表の和名
ヲシテ文字は神日本磐余彦尊から、景行天皇の時代まで使用されていたのだそうです。
神倭朝13代 成務天皇の時から武内宿禰(お地蔵様)が天皇家のサポートに入りました。
そのため、朝廷では、安閑天皇の時代まで、梵字を使うように成ったのだそうです。ところが、自称天皇の宣化の時代から、サンカ文字と呼ばれるものを使うように成ったのだそうです。
そして、朝廷が関西に行き、全てが中国人の思惑通り、漢字になったのだそうです。斎部氏の古語拾遺は、西暦で800年過ぎてのことです。
こちらは神倭朝42代 文武天皇陵跡です。吉見です。
こちらは元明天皇陵跡です。欽明天皇の皇居跡近くです。
そして、ここの銅鐸の地にはお釈迦様も来たのだそうです。欽明天皇と縁が深いです。谷中
中臣鎌足はチョンで、現在の鹿島の出身でした。
ウガヤの22代に縁の土地です。以前は鹿島神宮の土地だったのだそうです。
そして藤原不比等は三浦三崎に葬られた鎌足の子孫ではありませんでした。天智天皇が死の前日、鎌足に与えた大職冠も百度だそうです。役人の都合で、そのようにされたのだそうです。
しかも、69代の後朱雀天皇の時だそうです。
皇居は万光寺の下、稲荷神社
天武の時代から、一気に木簡が増えたというのは嘘です。
物部氏の屋敷は、巨勢氏の石碑のところにあったのです。北本市高尾、荒川の右
倭姫(やまとひめ)が文武天皇なのはバカチョンフジな役人の仕業です。
文武天皇も毒殺されたそうです。
文武天皇もイソ、五十の方です。
図と合わせて五八で、偉大な日本の建築寸法です。
当時も日本の下にあるキリスト教とイスラム教の派閥争いでした。
朝廷に中国人藤原氏が発生したのは売国奴、天武のせいです。(天智天皇談)
ウマイヤ朝の時、ササン朝ペルシャがアラビア半島も蹂躙したのです。
それをイスラムが駆逐したというのが大きな流れです。それはやはり重税の不公平感です。
最終決戦は642年でマホメット没後、10年です。マホメットはフランス語読みで、多くの方は、これで習っています。最近の表記がムハンマドです。
年表です。
ゴート族、フランク族は以前にも紹介しました。後藤組はノリエガ創価学会の殺人を請け負っていたようです。
仏蘭西とは、この流れで日本人を嫌います。
仏蘭西は毒殺が得意なので腐乱巣という表記も当たっているかもしれません。歴史上事実です。
皇祖皇太神宮で学んだマホメットも毒殺されたのです。
---708 和銅---
稗田阿礼 ひえだのあら
右から2番目
太安万侶も梵字のような文字で記載しています。
既に述べたように、漢字は、和銅の時代から使われだしたのです。
そして、朝廷が関西に行ってからは漢字だけが使われたようです。
太安万侶の住居も川島町にあったそうです。
画像を、太安万侶、稗田阿礼尊は書いていないそうです。
何しろ、当時は漢字を使っていない時なのです。役人の仕業です。
上狢(カミムジナ)というところの稲荷神社が、太安万侶の住居だったのだそうです。
天皇は僧侶だったのです。太安万侶も僧侶だったのです。それでないと梵字は書けません。
伊勢神宮、奉納文
イスラム教におけるスンニ派とは元は太陽信仰の民です。出雲朝の国忍富、誉田別命の民だったのです。ところが、悪魔どもが新興宗教イスラム(イソ=出雲朝)を起こして、転利したのです。
そのため、本当のイマームの子孫は日本に逃げてきたのです。酒も禁止されたのです。→杜氏
絨毯の技術者も高度な技術を持ってきたのです。→西陣織。
この大移動が起こったのが、神倭朝39代 弘文天皇の時なのだそうです。
太陽神ケプリとはエジプト神話の神です。
ケプリ神は、神倭朝5代 孝昭天皇の古い前世です。
元明天皇はこのケプリ神(孝昭天皇)をお祀りしていたのだそうです。
元明天皇は天智天皇の娘さんではないのだそうです。出身は、ま国の出丸なのだそうです。
日記 倭の事 皇居跡 埼玉県比企郡川島町大字出丸中郷1520宝石寺
この時の朝廷は中丸氷川神社だったそうです。天智天皇陵もちゃんとあったのです。
そんな元明天皇の御住まいは、川島町の出丸にあったのです。
タイトルの聖神社とはあちこちにあるようです。本来は出雲朝初代の瓊瓊杵尊を祀っていました。
因幡の国にもあります。鳥取は出雲朝の鳥鳴海という方の縁です。
この聖神社の本宮は、やはり出雲朝の地、秩父にあります。ここにも敵の中国人が沢山入ったのです。
元明天皇は齋(いつき)だったのだそうです。
呼ばれたのな偉大な霊力の如意輪観音、欽明天皇なのだそうです。
田甲とは多甲です。
ポンポン山を御神体とするのは高負彦根神社です。
ご祭神はネフェルテイテイと大巳貴命、出雲朝4代のオミズヌ(神倭朝13代 成務天皇)です。
タイトルは吉見にある神社です。
この神社は最初は崇峻天皇を祀り、→持統天皇→元明天皇までを祀っていたのです。
元巣とは元明天皇の祖でもあります。
孝霊天皇、孝元天皇の神器、大串(天狗の槍)を打った大串という地名に近いです。
前河内とは前皇地ということです。
常世岐姫に案内された、さくら堤公園が中心に近いです。
先日お伝えした用明天皇の通られた胎蔵界の門はこちらです。
持統天皇陵を設けたところです。本当の魔法陣です。
この如意輪、魔法陣は欽明天皇が造り、神倭朝49代 光仁天皇の代まで使えたのだそうです。
訪問者様が、元明天皇を祀った元巣神社にお参りに行ってくださいました。
元巣神社の御祭神です。
元明天皇は啼沢女命(ナキサワメメノミコト)とされていました。
昨日、吉見に前世がある方にメールの返事を書いていたら7世紀の道路工事跡があったという記事を見つけました。
発掘されたのは中新井というところです。
幅が9メーターと言ったら、中山道より広いです。
これを始めたのは川島町出丸、デルマルの神倭朝43代 元明天皇(707~)です。
この道は前玉へと行くはずだったのです。ヤマシロとイカルガを繋ぐ道だったのです。
神代谷と前玉の丸墓山を結ぶ道だったのです。
偉大なアショカ王、神倭朝12代 景行天皇のためです。
景行天皇、アショカ王は御本人ばかりでなく、相模の祖、サンガミトラさんや母まで日本に来たのです。
その母の住い、陵がこちらだったそうです。息障院
黒岩と言う地名はアショカ王、景行天皇の時からのものなのです。
鳥鳴海王の神社、成海神社を別の訪問者様が取材してくれました。
https://youtu.be/uKrcT7SnmYg 5:02
ことら総合研究所の「ことら」とは、最初から述べているように、Contents Torahの意味です。
Contentsとは中身、満たされているものです。トーラーとはモーセ5書です。
アベルとはデルマルの元明天皇もアベです。
紅海を挟んだエジプトの対岸がアベです。歴史上、アベという天皇は複数います。
安部総理の先祖も朝鮮を経て山口に入ったのだそうです。
県(あがた)とは、言葉としては以下のようです。Wiki
縁の深いところにタチバナ姓があります。
元明天皇によく仕えたという県犬養三千代とは以下のようです。Wiki
この方は天智天皇の時代から朝廷に仕えていたそうです。
朝廷の役人の住い(官舎)はこちらだったそうです。
さくら堤公園の魔法陣近くです。
はつうま、2月最初の牛の日のこと。
稲荷信仰の解説です。
稲荷とは、金星の遣いです。本来星祭です。
伏見稲荷の解説です。既に開化天皇の時から在ったそうです。(履中天皇談)
元明天皇の時代、現在の初午に当たる祈年祭は、川島町出丸の上大屋敷で行われていたのです。
歴史上不明と思っていた草壁皇子、岡宮天皇はやはり百度でした。
文武天皇が母は持統天皇と言っていますので、元明天皇が母というのも違います。
以前にも出雲大社のことは紹介いたしました。明治まで杵築大社でした。
斉明天皇、中大兄皇子(天智天皇)の大きな敵が蘇我氏だったのです。
中臣鎌足と組んで、これを討ったのは良かったのですが、天武が売国してしまったのです。
その売った先が、現在の三重県松坂周辺に居た忌み嫌われた殷(商)の末裔共だったのです。
買った者は、現在の百貨店の創業者たちです。
天皇家が商業が嫌いな理由は、ここにあります。悪しき金儲けはダメです。戦争の元だからです。(諸天皇様)
その後、元明天皇がサウジアラビアのDelmar(出丸)から、日本に来たのです。
ここでイズモと言う言葉が起こったのです。
「モ」とはMOON、月ですが、それがエジプトと紅海をまたいだサウジアラビアの象徴です。月の砂漠です。イソ(ISO)、五十、イズはイタリア、ギリシャ、トルコです。
ざっと地図の見えるところがイズモです。これが倭です。日本が棟梁です。
元明天皇はサウジの王族、王女で斎だったのです。
サウード家の方です。Wikiの引用です。
マホメットが日本に神道の勉強に来たのは、サウード家の手配です。
元正天皇は娘でなく、役人です。
元明天皇の故郷、出丸では、イスラム以前は拝火教でした。
その経典が、皆さんも知っているアベスタです。そこからアベと名乗ったのです。
この拝火教は世界的な宗教だったので、景行天皇も信者だったのだそうです。
ただ不幸な戦争が起こり、景行天皇は一切の殺生を禁じる仏教徒に成ったのです。
そして第3回仏典結集を行ったのです。
おしまち、明治22年に発足
現在の忍地区は成田で、氏神様はエジプト、アフリカです。
行田町、佐間村は主にま国です。間とは「はし=ハサ」と言う読みを当てることもあります。カシも当たります。紅海を挟んで左が忍、右が行田と言った事も言えます。
行田、佐間の氏神様はメデイナの方です。ざっと以下のようです。
行田、佐間の民は元明天皇の民ということです。
Wikiなどから、サラセンの紹介です。特にウマイヤ朝が、サラセン帝国と呼ばれたようです。
もちろん、ここでサラセンといえばデルマルから来た元明天皇です。
忍でサラセンといえば、皿尾と言う地名があります。
南河原の今村さん(イマーム)らと一緒に来たのだそうです。
古事記にあるウマジアシカビヒコジノカミは、元明天皇のご先祖様なのです。
軽皇子と言うのも、草壁皇子の名称です。
カルとは星は金星で、Emperor、エンリル神、大山咋命の氏子です。
草壁皇子はアラビア半島の南の果て、オマーンからやって来た王子様でした。
初午のウマといえばシュメール、ウルクです。
ウンマ、ウル、ウルクが初午のウマです。
ギルガメッシュ王、宇迦之御魂大神もサルゴン建玉天皇も祀っていたのがエンリル神、大山咋命です。
ここではエンリル神、大山咋命を神武天皇としています。
そしてエンリル神は、お神輿の上の金の鷲でもあります。
世界の指導者全てが氏子に成りたいと憧れている神です。
初午はシュメールより始まったということです。
和銅はもちろん元明天皇の時代です。
初午は、ここが始まりです。川越運動公園
日記 元明天皇陵跡 前出
奈良平安時代の解説には藤原氏と関係の都の紹介が必要です。
元明天皇の藤原京は現在の都幾川周辺と紹介いたしました。正確には鳩山町になります。
タイトルの藤原式家とは元明天皇の役人が祖です。イスラムの藤原氏です。
齋の元明天皇には、デルマルから、お供が1200人も付いて来たのだそうです。
藤原式家の祖が藤原馬合(うまかい)です。
式とは施基皇子(しきのおうじ)の事で、イスラム藤原氏が祀っていたお地蔵さまです。
元明天皇、藤原宇合(=馬合)の民が住んだのが現在の志木市です。
藤原京、長岡京、平城京、平安京=鴻巣と都はかわりました。
平城京まで、ざっと紹介します。
日記 軽皇子、マルワーン1世(後半) ?AH73/1/18
風土記、すべてが偽書です。これは孝謙天皇(称徳天皇)に取り憑いたカラ、弓削道鏡が諸悪の根源です。
それにキリスト教、カラスチームの中国人、藤原氏の陰謀です。
その為、ウマイヤ系の淳仁天皇、ムスリム藤原氏、恵美押勝は排除されてしまったのです。
そして日本書紀同様、多くの歴史研究者に仇なす風土記が書かれたのです。
日記 ウマイヤ朝 略系図(後半) ?AH73/1/18
忌部氏は用明天皇の時から、中臣氏は推古天皇の時より宮中で神事を行っていたのです。
文字など使っていなかったので、当然御札もなかったのです。不幸なことに中臣鎌子は中国人に子孫を語られてしまったというわけです。
では、忌部神社は何処に在ったかというと、こちらだそうです。
確かに磐境明神のように石室だったのだそうです。
以前にも楔形文字は紹介いたしました。
これはラーのものです。ここで言うラー、太陽神は太陽界の神々です。
特に、地球と火星、金星の3つの惑星の神々です。
神代文字にも見られるアブジャドは元明天皇もデルマルで使ったそうです。
日記 イスラム圏の服装(後半) ?AH73/1/18
マサダ要塞の悲劇は、神倭朝九代 開化天皇の時代に起こりました。
悪はヘロデだそうです。(ヤハヴェの神、田中大神談)
https://youtu.be/AAAbksd8NC0 3:45
桶川西校の脇で遺跡跡が見つかったそうです。神倭朝44代 元正天皇の皇居跡だそうです。
養老と言えば関東では千葉が有名です。
元号では西暦717年から724年です。
元正天皇の時代でした。この後、朝廷が西に行くのです。
行基は信者を増やすため、欲の追求をさせたのです。僧侶としては駄目です。
せいぜいが政治家程度です。真魚よりはマシだそうです。(覚鑁上人談)
かっては高尾山も薬師如来を祀る法相宗だったのです。出雲朝です。行基が真言宗智山派に改宗させたのです。
覚鑁上人は真魚(弘法大師)の正体が見えたのです。その為、覚鑁上人は真言宗から弘法大師の話を削除しようとしました。これが、本当の新義真言宗です。
当然、古い坊主は怒り、覚鑁上人は殺されそうに成ったのです。僧侶が霊的に無能では悲しいです。
ピラミッドやストーンヘンジ、環状列石などは皆、神々、仏様と交信するためのものです。
土地や時代によって、その形状が違います。場の周波数、波形が違うからです。
浦島太郎は竜宮城で過ごした数年が数十年でした。龍宮城は土星だからです。
土星の1年は地球での29.6年です。
全国にあるという浦島太郎の話です。内容は百度です。
丹後のものと武蔵国のものが重要です。丹後のピラミッドが天橋立です。
武蔵国の話では白幡が出てきます。浦和の白幡沼です。
浦島太郎は、浦和の不動明王、出雲朝10代 ミカヌシを手伝った人です。
白幡沼の話は、以前に書きました。不動明王、ミカヌシのことです。
三浦とは出雲朝10代 ミカヌシ、12代 ミロナミ、13代 ヌノシドトリナルミの三柱です。
三浦三崎の白髯神社に祀られているのが田中大神、ヤハヴェの神、ミロナミです。
中臣鎌子(中臣鎌足→藤原鎌足)は神官だったので妻帯は許されず、当然子はいなかったのです。(皇極天皇、斉明天皇、後三条天皇談)
川越の山田神社に祀られた藤原不比等もだそうです。
藤原広嗣は賊として有名です。朝廷に惨殺刑されたのも有名です。
式家の藤原宇合は烏合の衆だったそうです。聖武天皇が粛清したのです。
藤原宇合の住いは、やはり出丸にあったそうです。ここです。円福寺だそうです。
私は今日の今まで、墾田永年私財法(743年)は西で発布されたと思っていました。
ところが元正天皇によると、東の朝廷で発布されたのです。
しかも諸悪の根源のような道鏡も、下大屋敷に居たのです。
道鏡が栃木に幽閉されたのも距離的に納得出来ました。道鏡の幽閉は史実です。
川越に弓削田が多いのも理解出来ました。
今日の最後は和気清麻呂公が阻止した神託の神社です。
さいたまから九州までは遠すぎます。応神天皇や、斉明天皇の墓の話もフェークです。
和気清麻呂公が阻止した神託の神社は、さいたま市の氷川大社です。
和気清麻呂公のお住いはこちらだったそうです。川島町
ローマ帝国とは略(ほぼ)全てが東ローマ、ビザンツ帝国です。
その変遷です。Wikiのものを加工しました。
養老(=ローマ侵入)の時代はフジアンの野望を阻止するため、役小角尊が現れました。
本題の元正天皇の姉妹とされる吉備内親王のことです。
この方は元正天皇の姉だそうです。Wikiの引用です。
ここで言う生駒山とは大倭神社近くの三橋総合公園だそうです。
聖徳太子も奈良町の生まれでした。
三橋とは三柱を祀ったという意味なのです。
Wikiの引用でおさらいです。
日記 テオティワカン 前出
その始まりは神倭朝7代 孝霊天皇の時からです。
最後の王となった和風諡号 元正天皇はテオテイワカンの女王だったのです。
ざっとテオティワカンの紹介です。
アミの住む親交世界では、いかなる時代のこともモニターで見えます。
700年前の事なら、350光年先に設置した鏡に反射して、ここで見えるのです。
これが水鏡の秘密です。ピラミッドの底の水の秘密もここにあります。
お釈迦様が持っていた水鏡も三千世界が見えるのです。